青いスカラベの悪戯
天井から床まで張られた開放的な窓にたったっと雨粒が当たり、静かに伝って落ちていく。
雨の日は佳い。
じとりと肌に纏わりつくような空気、眩しい光を覆う厚い雲、鼻腔を擽るペリトコール。濁ったものを洗い流すように天から降り注がれる水は、その全てが深透の親愛なる
隣人であり、言葉無き
友人であった。
ポートマフィア本社ビルの一室。地べたよりも天に近い其の一室は滅多に人が寄り付かない深透の執務室であり、第二の家でもある。
特に何をするでも無く、深透は其処でただ窓に背を寄り掛からせてじぃっと空を見ていた。
灰の混じった薄い紫の虹彩の真ン中、底の知れない瞳の
孔がスッと横に伸びる。窓の外で垂れていく雨粒を横目に視ながらパチンと
指鳴らしをすれば、たちまち雨粒は重力に逆らって浮き上がる。降り注ぐ雨を巻き込んで名も無い魚を模した形へと姿を変えた水を宙に泳がせながら、深透は手に持っていた
珈琲椀に口を付けた。
ほろ苦い液体が喉に流れ、すっと頭が冴えるような気がする。デスクに並んだ三面のディスプレイは既に落としていて、室内には機械のモーター音も普段耳が寂しいからと流しているクラシックも聞こえない。ただ分厚い防弾製の窓に雨粒が当たる微かな音だけが室内に残っている。
「入るぞ」
声と
叩扉は殆ど同時だった。
部屋の主人である深透を気にする事無く、彼は平然と入ってきて肩に掛けていた外套を扉近くのポールハンガーに掛けてから、ふらふらとソファに倒れ込んだ。
「スーツ、皺になるわよ」
「いい。疲れた。休ませろ」
端的に三言呟いて、彼はそのままクッションに顔を埋めた。ずれた帽子から
甘橙々の髪がふわふわとあちこちに飛び出していて、室内に満ちていた
琥珀と珈琲に混じって仄かに硝煙が香り立つ。
「何時から此処は中也のベッドになったのかしら」
座ってはいるのに上半身だけを寝かせている中也はまるで猫のように背を丸めてぐったりとしている。深透は魚を模す雨に掛けていた異能を解き、デスクに
珈琲椀を置いてからゆっくりと彼に近付いた。
―――「深透さんの居場所は寝るに最適だ」
かつて、そう云って暇さえあれば深透の傍に転がり込んでいた同僚も居た。それは中也も例外ではなく、深透が居ようが居まいがやって来ては僅かな時間も惜しいというように侵食してくる。
「お疲れ様」
「ん"ー……」
「珈琲飲む?」
「要らねぇ……いや、やっぱいる」
深透は目線を合わせるように屈んで、跳ねる髪を撫でてから中也の頬をそっと手の平で覆う。擽ったそうに口元が緩み、晴空色の眼は目の前にいる最愛を映した。
此方に顔が向いたのを良い事に、深透はちょんと中也の鼻先に唇で触れて、軽く食むように押し付ける。
「クッションに紅付けないで頂戴ね」
彼の鼻先に薄らと
花紺青が色付いたのを見て満足した深透は、ゆっくりと立ち上がって室内に設置された専用の簡易キッチンに移動した。
ケトルを満たした水がコポコポとお湯になっていくのを聞きながら、ドリップタイプの珈琲を用意する。
再び室内にふんわりと漂い始めた珈琲の香りにゆるゆると瞼を落としながら、沸いたお湯を丁寧注ぐ。
「深透ー……」
「はいはい」
「
紅取ってくれ」
「自分で取りなさいよ」
「手前が付けたんだろ」
のそのそとソファから起き上がった中也は擦り寄るように#深透#の肩に頭を置き、催促するように「ん」と鼻先を突き出した。深透は不思議そうに眼を瞬かせて、それからまたちょんと、今度は唇を重ねてから悪戯っ子のように眉尻をきゅっと上げて笑った。
「やだ」
「餓鬼か手前は」
どうやら今日の深透は御機嫌らしい。室内は風がないにも関わらず、彼女の深海の色をした後ろ髪は揺蕩うように中也の髪にじゃれついている。
雨の日だからなのか、それとも他に善い事でもあったのか。どちらにせよ普段は自身から中也に仕掛ける事をしない深透が、今日は随分と可愛い事をするものだからすっかり目が覚めてしまった。
それなら善いかと鼻先の紅をそのままに、中也は深透の腰に腕を回して自身の方に引き寄せた。重心を傾けた深透は「ふふ」と擽ったそうに声を零し、用意の手を止めること無く云う。
「紅、取らないの?」
「此処出る時で良いだろ」
「人が来たら如何するの」
「手前の執務室に来客?ンな物好きいねぇだろ」
「あら、部下は来るわよ。あと中也」
角砂糖を二つ入れて、深透は出来上がった珈琲を中也に手渡してから簡易キッチンに備え付けられたシンクの蛇口を捻る。流れ出る水は排水口に落ちること無く宙に浮き、拳大程の大きさになった水の玉はふよふよと流動的に揺らめきながら魚の形を模した。
「ほら、お鼻出して」
「ん」
くいっと軽く顔を上げれば、深透が異能で操作している水の魚は中也の鼻先を滑って付いていた紅を食べてしまう。仕事を終えた水の魚は中也の周りをぐるぐると跳ね回ってから、ただの水へと戻り排水口へと落ちていく。
「あーあ、勿体ねぇ」
「何よ。取ってあげたのに」
「折角深透が俺に付けた
印なのになァ」
「……ただの口紅でしょう」
「手前でやって照れんなよ」
「もう!」
「イテッ」
にまにまと緩む頬を隠す事もせず、少し高い所にある深透の首筋を捕まえて揶揄うように囁けば、彼女は耳を林檎のように熟れさせながらも中也の脇腹に肘を入れた。
照れ隠しにしては痛いが、何年経っても初々しい姿を見せるものだからどんなに噛み付かれようが許してしまうのは惚れた弱みだろう。
「本当に寝に来ただけなの?」
「いや、仕事の話持ってきた」
「そうだと思ったわ。ほら、ほらほら移動して」
「はいはい仰せのままに」
「巫山戯ないで」と尖らした唇にちうと態とらしく音を立ててキスを落とせば、折角引きかけていた深透の熱はぶわりと広がって首筋まで赤くなった。
自分からするのは良いのに、されると焼き林檎になってしまいそうな程照れる。
押されると滅法弱いのはずっと変わらない彼女が可笑しくて、愛おしくて。中也がけたけたと笑いながらも丁寧にソファまでエスコートすれば、借りてきた猫のように大人しくなった深透はむっすりと頬を膨らませながら中也の髪に顔を埋めた。