その日、NASAの若き天才科学者、ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールドは初めて職員同士の雑談に自分から割り込んだ。

「やあ、百夜、ナマエ。珍しい2人組だね」

ミドルエイジの男性らしく闊達で、何をするにも情熱に溢れた宇宙飛行士の百夜と、財閥令嬢らしく気品があり、周囲に対してどこか一歩引いたところのある予算部のナマエ。美女と野獣とまではいかないが、同郷というだけでつるむには些か珍しい取り合わせだ。
心なしか距離が近く見える2人の間へ挟まるようにして輪へ加わると、百夜がナマエに向けて人差し指を差した。

「ゼノ、聞いてくれよ!ナマエのやつ、プールの訓練が羨ましいとか言うんだぜ!」
「あの広い空間で目いっぱい泳げるんですよ?羨ましいです」
「ハア!?2000メートルとか泳ぐんだぞ!」
「いいですね。私も久々にそれくらい泳ぎたいです」

ジムへ通えばいいんじゃないだろうか。
ナマエの言葉にそんな感想が過ったが、世間話に正論を返しても仕方がないので否定も同調もしないまま曖昧に笑んでみる。

「つーか泳ぎてェならその辺のジムのプール行けばいいじゃねえか!」
「そうしたいのは山々ですが⋯⋯」
「あん?何かあんのか?」

⋯⋯率直な百夜が羨ましい。
ナマエが毎週のランチで僕に何かを「羨ましい」と吐露したことはなく、こうして言い淀むような何かを打ち明けてくれたこともない。
僕よりも百夜の方がナマエの心の柔い部分へ触れることが許されているようで、⋯
少し⋯⋯妬けた。

「実は、知らない人がコーチを申し出てくるのが、少し苦手で」

知らない人がコーチを申し出てくる⋯⋯?
人生において経験も想定もしたことのない状況を話されてどういうことかと眉を顰めていると、百夜は「オイオイ」と頭を掻いた。

「オメー、気づいてねーみてーだがそれはナンパだ!」
「スポーツジムのプールですよ?そんなところでナンパなんかしますかね?」
「する奴はすんだよ!」
「どこもちゃんとしたジムだったのに⋯⋯。世も末ですね」

衆愚からのナンパ被害に遭っていたというショッキングな事実を「世も末」の一言であっけらかんと片付けた彼女に目を丸めてしまう。何事にも鷹揚に構える彼女の性格は財閥令嬢として好ましく評価されることの方が多いだろうが、危機管理面には少々問題があるようだ。

「待ってくれナマエ。どこもというのはまさか、1件2件じゃなくそういった迷惑行為の被害に遭ってきたということかい?」
「ええ。日本ではよくあることだったかと⋯⋯」
「⋯⋯アメリカに来てからは?」
「スタッフさんが止めに入ってくれて、⋯⋯そのまま言い争いになって、最後は殴り合いに発展してました」
「⋯⋯⋯⋯」

衆愚どもめ。
つい無言になり、遅れて行儀の悪い舌打ちが出そうになったのを抑えながら、苦笑いを浮かべるナマエの顔をやるせなく眺める。
2000メートルと聞いて「久々にそれくらい泳ぎたい」と言い、いくつかのプールに通おうとしたくらいだ。水泳は得意でもあり、好きでもあるのだろう。
彼女の楽しみが衆愚のせいで奪われるだと?
そんなこと、断じてあってはならない。

「おいナマエ、ゼノ先生にプール使った研究考えて貰おうぜ!そうすればテメーも変なのに絡まれねーで泳げんぞ!」

百夜らしい合理と情熱を兼ね合わせたアイディアに一瞬虚を突かれたが、理屈の付け方次第で十分に可能だ。
僕が、衆愚のせいで不自由を強いられているナマエを救うことができる。
嗚呼、なんて甘美でエレガントなことだろう!

「いいね。普通の水泳とは少々勝手が異なってしまうかもしれないが、」
「い、いえ!ドクター・ゼノ、本気にしないでください!ただでさえお忙しいのに」
「構わないよ。ちょうど気分転換が欲しかったんだ」
「ホラ!ゼノ先生もこう言ってんだ!任せちまえよ、ナマエ!」
「ダメです」

拒絶を示すように腕を組んだ彼女が、淡々とした声で言う。

「そこは予算部の人間として線引きさせてください。国家のお金で運営しているプールをわがままと屁理屈で使うのはダメです」
「元がわがままでもちゃんと役に立つ研究ができればいいじゃねえか!」
「百夜の言う通りだよ。例えば将来に向けて汎用型の宇宙服を開発するのはどうだい?過去にも職員が宇宙服の開発テストを担った例があったはずだ」
「もう、ドクター!⋯⋯分かってるでしょう?予算計画になかった研究は認められません」
「おや、手厳しいことを言うね」

組織のルールなんて正論を出されては手が出せない。せっかくの、彼女の好きなことを手伝えて実験もできる一石二鳥のエレガントなチャンスなのに。
筋を通す彼女の仕事ぶりは好きだが、もっと頼られたい。彼女が望んだなら、僕は国家のためなどではなく彼女ただ1人のために、喜んでこの頭脳を使うのに。
スタンとレールガンを作った時のように、彼女と特別な、秘密の共犯関係になれたらどれほどいいだろう!
何か、何か道は——。

「⋯⋯要は、ここでなくとも他者の干渉を受けずに泳げるプールがあればいいんだろう?」
「え、ええ⋯⋯」
「なら、日曜の8時に君を迎えに行ってもいいかい?実験名目で使えるプールがある」
「おー良かったじゃねーかナマエ!ゼノに甘えとけ!」
「い、いやです」

いやです。はっきりした端的な拒否の言葉が僕の胸を刺す。
嫌だと?何が嫌だったんだ。貴重な休日に僕と出歩くのは婉曲表現ができないほど嫌だったのか。ナンパなどという浮ついた迷惑行為を仕掛けてきた衆愚のことは簡単に近寄らせるくせに。
ああ駄目だ。下心まみれの薄汚い衆愚に彼女の腕が触れられたのではないかと考えると虫酸が走る。いや、たとえ1ミリも触れられていないとしても、水着で晒された手足や、雫に濡れる艶めかしい肌や髪を衆愚に晒したのかと思うと、それだけで許し難い。
やはり僕は、ナマエを僕だけの知るどこかへ閉じ込めてしまいたい。衆愚の目の届かないところに隔離して、月面の基地で植物を育てるように、あらゆることを精密に計算して、絶えず彼女を観察・管理・記録できたらどれだけ幸福か——。
まだプールは与えられないが、この際行動に移してしまってはどうだろう。流されやすい彼女のことだ。僕に管理されるうち、「いやです」なんて言葉はきっと出なくなる。

「嫌だァ!?オメー意外とワガママだな!何が嫌なんだよ!?」
「だ、だって嫌です!ドクターの休日をこんな下らないわがままで奪いたくありません」
「めんどくせえ奴だな!本人がいいって言ってんだから甘えとけばいいだろ!」
「そんなこと言ったらドクターが断れなくなっちゃうじゃないですか!パワハラですパワハラ!」
「ああ?ゼノ先生は気ィ遣ってんじゃなくてマジでいいって言ってんだよ!なあゼノ!?」
「ドクター!石神さんの言ってることは無視してください。休日は楽しみたいですよね、ドクター?」

ずいずいと、2人の顔が近づいてくる。
⋯⋯百夜に、心から感謝したい。
ラボへやって来る時も、ランチをする時も、ナマエとの間にはいつだって距離がある。それが今、百夜と競うように話しかけて来るおかげでこんなにも近い距離にいる。胸元という至近距離から見上げてくる彼女はもはや破壊兵器だ。

「確かに、休日は楽しみたいね」

ナマエの言葉に同意を示しながら微笑むと、彼女は勝ち誇った顔を百夜に向けた。どうやらナマエは案外子どもっぽいところがあるらしい。
けれど残念、人の話は最後まで聞くべきだ。

「さっきも言った通り、僕は気分転換の実験がしたい気分なんだ。プールでの実験に協力してくれる助手がいるなら、ぜひとも実験で楽しい休日にしたいね」

百夜への勝ち誇った顔から一転、好物の餌を取り上げられた猫のように目を丸くしたナマエが、僕のことを見上げた。

「それとも、休日にまでつまらない研究員の相手をするのはごめんかな?」
「ドクター・ゼノ、そんなことありません!ドクターみたいな方といてつまらないなんてあり得ません!」
「なら決まりだ」
「⋯⋯あら?」

自分の望む形で収束したことに満足して首肯する僕とは裏腹に、ナマエはなぜこうなったのかと不思議そうに小首を傾げた。

「ホラな!最初からゼノにドーンと甘えとけばいいんだよ!」
「ドーンとっていうのは甘えられる側に使う言葉で、甘える側がドーンとするのはふてぶてしくないですか?」
「細けーことはいいんだよ!次の訓練あっからじゃーな!」

去り際、百夜が僕の背中を強く叩いた。まるで、戦に勝った友を称賛するように。もしかすると彼は、僕のことを応援してくれているのだろうか。だとしたら少しばかり心強い。

「あの、ドクター・ゼノ……」
「なんだい?」
「私、このままだと本当に待ってしまいますよ?日曜日の朝8時に」
「おお、それはいい。待ちぼうけの不審な男にならなくて済みそうだ」
「もう⋯⋯。ドクターは本当に、優しすぎます」

少しの呆れを語尾に滲ませながらも、彼女の声は子守歌のように甘く、瞳の縁は時の流れさえ包み込むような穏やかさを湛えている。
その僕を信頼しきった微笑みは眩しくて綺麗だけど、今は少しばかり憎らしい。
僕は慈愛に満ちた聖人のように皆へ平等に優しくするような人間ではない。優しく接したい女性として選ばれているという意味をもっと考えてくれたらいいのに。
僕はただの「優しい男」なんかで終わりたくはない。

「⋯⋯どうだろうね。だが今はこう言っておこうか。As you wish,my lady.」
「望みのままに、ですか。ドクター・ゼノったら、本当に紳士ですね」

サンフラワーの咲いたような微笑みが、光速を超えて僕の脳へと飛び込んでくる。
嗚呼、どうして彼女は多言語なんか学んでしまったのだろう。僕の知らない東南アジアの言語を学ぶ時間でもっと英語だけを深く学んでくれていたなら、プリンセス・ブライド・ストーリーのあらすじだけでも知っていたなら、僕が言葉に込めた意味に気づいてくれたはずなのに。

「実験、やるからには徹底的にやりましょう。As you science,my doctor.⋯⋯なんて、文法的にちょっと無理がありますかね」

ナマエは一体僕をどうするつもりだろう。
ナマエはたまに僕をずるいと言うけれど、彼女の方が絶対にずるい。
悪戯っ子がはにかむような、微笑みのひとつで憎らしい気持ちを弾ける星へと変えてしまうのだから。

「確かに文法的には異例だが、僕はエレガントで好きだな」
「おや。Xenoの名を持つ方に自分が作った異例を褒めてもらえるなんて。なんだか嬉しいですね」

だから!君は!僕をどうしたいんだ!

人目が無かったら心臓を抑えてこの床の上を転げ回って悶絶する。
Xeno――異種・異質、見知らぬ者を指すギリシア語。それが僕の名だ。距離や違和感を含むニュアンスは、恐れや嫌悪と結びつきやすい。
その名をこうも簡単に輝きと色に満ちたものへ変えるなんて!

「エレガントだよ、眩しいほどに」
「そこまで言われると、ちょっと恥ずかしいです」

先程の言い回しの方ではなく彼女自身を指して言っているのに、やはり気づいていないらしい。
嗚呼、日曜日が待ち遠しくて仕方がない。
実験という共同作業を行えば、彼女とのこの距離だって縮まるに違いないのだ。



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YA'ABURNEE

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