あの人が悪者でなかったことを、わたしは知っていた。初めて会ったときは、今の面影もないくらい優しくて聡明で、わたしのことを守ろうと匿ってくれた。匿っていることが上にバレたら、あの人だって無事ではいられないのに。そんなことはわたしが気にすることではないと、大きな手で、ぎこちなくわたしの頬に触れたときのことを覚えている。

「これ…林檎?どうしたの?」
「これで何か作れるか?」
「いくつか材料を揃えてくれたら作れるけど…」
「何が必要か教えろ、用意する」

戸惑うままに、久しぶりに台所に立って作ったのは、向こうで何度か作ったことのあるアップルパイで。半分以上はあなたのお腹に収まってしまったけれど、あなたがどこか嬉しそうにしていたから、胸がいっぱいになった。あなた、林檎が好きなのね。もっと早く知ればよかった。二人でアップルパイを食べた数日後には、もう優しいあなたはいなかったから。変化の兆候から目をそらしていたわたしに、きっと罰が当たったのね。

「えねどら、くん」

結局一度も呼べなかった名前をそっと溢してみたけれど、当然返事はなくて。じくじくと痛みだした胸から意識をそらすように、変わってしまったあなたの右目を見つめた。

* * *

久しぶりに見る故郷に、すっと目を細める。じとりと滲んだ手汗には知らないふりをして、あの人を見上げる。ここからが勝負なのだから、気を抜いてはいけない。ただのトリオンタンクとして存在したわたしの、最後の仕事が待っている。

「ねえ、あなたはこれからどうするの?」
「ハッ、決まってんだろ。雑魚どもをぶっ飛ばしに行くだけだァ」

吐き捨てるように、顔を歪めて嗤うあなたのことが、まったく怖くなかったと言ったらどんな反応をするだろうか。わたしの中のあなたは、あのときのまま止まっている。わたしを守ってくれたあなたのまま、止まっているのだ。これも現実逃避のなかに入るのか、わたしにはわからないけれど。

ミデンに行くからとわたしの手を引いたあなたは、わたしが逃げだすとは思わなかったのか。今では確かめようもないけれど。

「わたし、あなたのことが嫌いではなかった。何をされても、どんな扱いをされても、嫌いにはなれなかったのよ」

動かなくなったあなたに、そっと触れる。戦い続けたあなたは傷だらけで、なんだかんだと守られていたわたしは無傷で。解放されて嬉しいのに、目をそらし続けていた胸の痛みが大きくなって、じくじくと疼き続ける。涙を流さないのは、あなたを犠牲にしてしまったわたしに、あなたを想って泣く資格なんてないから。消えてしまった優しいあなたと、強くて残虐なあの人を犠牲にしたわたしに、あなたを想う資格なんてない。許されるはずがない。なによりもわたしが、許せない。

あなたがあのとき変わらなかったら、わたしは公のいるこちら側に帰ってくることができなかったかもしれない。優しいあなたの、真綿のような想いに包まれて、小さな罪悪感を抱えたまま向こうで生きていたかもしれない。だって、あなたの隣は居心地が良かった。わたしを守ると言って不器用に笑ったあなたに、わたしはきっと、恋をしていたの。





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愛を犠牲にして