今の生活に不安も不満もない。そのはずなのに、この胸を占める焦燥感はいったい何だろうか。窓から夜空を見上げると、何年かぶりに見る満月と無数の星が輝いている。向こうでは見られなかった景色だ。けれど、綺麗なはずなのに胸にぽっかりと開いた穴が大きく広がっていくような、そんな気がして息が詰まる。気づけば頬が濡れていた。

こちら側に帰ってきてからというもの、怖いことも悲しいこともないのに、時折涙が流れるようになった。原因もわからないのに止められるはずもなくて、いつも流れるままにしているのだけれど、どうにかならないものかと苦笑がこぼれる。このままでは、だめなのに。

「──和花?」
「っ!?」
「泣いていたのか?」

背後からかけられた声に驚いて振り向くと、眉を寄せたレイジくんがこちらを見ていた。その声に滲む心配の色に気づいて慌てて涙を拭う。優しい人に、迷惑をかけるわけにはいかないから。

「何かあったのか?」
「え?」
「泣くほどのことがあったんだろう?」

ふ、と頬に触れる指先に、じわじわと熱が集まる。きっと他意はないのだろうけど、男の人に免疫のない身としてはやめてほしい。いつか、心臓が壊れてしまいそう。

「和花?」
「あ、えっと……その、ね?」
「ああ」
「ほんとうに何もないの。どうして泣いているのか、わたしにもわからないから」

温もりに促されるように正直に言えば、レイジくんは驚いたように少しだけ目を見開いた。21歳にもなった女がこんな風に泣いて、呆られたりしないだろうか。胸を過った不安にそっと目を伏せると、頭上でくつりと喉を鳴らして笑う声が聞こえた。

「更級と同じだな」
「更級……公、と?」
「ああ。更級も理由もわからずに泣いたことがあった。感情が追いついてないんだろうな」
「どういうこと?」

レイジくんの言っていることがよくわからなくて首を傾げると、レイジくんの大きな手がわたしの頭に乗った。ぴしりと固まるわたしをよそに、ゆっくりと撫でるようにレイジくんの手が動く。その温もりに、止まっていたはずの涙が一粒、頬を伝った。

「向こうで一人、気を張っていたんだ。安心して気が抜けて、4年半ほど溜め込んだものが溢れてるだけだ。何もおかしいことはない」
「……うそ」

そんなはずはない。だってわたしは、向こうで何もしていないのだから。怖いことなんて何もなかったと、そう言いたいのにわたしの口ははくはくと動くだけで言葉が出てこない。次々と零れ落ちる涙が頬を濡らしていく。言葉の代わりに出てくる嗚咽が、静かな室内に響いた。こんなのじゃだめなのに、涙は止まらない。きっと今までで一番泣いている。

これ以上泣き顔を晒すのが恥ずかしくなって手で顔を覆えば、全身が大きな温もりに包まれた。近くで聞こえる自分以外のものの鼓動に、抱き締められていることがわかった。離してもらおうとレイジくんの胸元を押すけれど、あまり意味はない。

「嫌か?」
「え……?」
「できればこれからも一人で泣いてほしくないし、その涙を拭うのは俺であればいいと思うんだがな」

低い声に囁かれた右耳を中心に、全身が火傷したように熱い。嫌ではなくて、恥ずかしいだけでむしろ安心するのだと伝えれば、わたしはどうなってしまうのだろうか。なんて、気づけば涙は止まっていた。





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深い海の底で手を伸ばした