いつかの未来、プロポーズネタ
傷跡を隠すように伸ばされた長い前髪も、綺麗に巻かれてボリュームのあるように見える後髪も、酷く無防備にまとめられる時間があることを他の奴らは知っているだろうか。
コトコト、と。リズムよく包丁の刻む音が聞こえて、作業の手を止めてキッチンに視線を向ける。鼻先を掠める美味しそうな香りにぐう、と腹の音が鳴って何となしに腹を摩る。その音が聞こえたのか、聞こえていないのか。キッチンにいた彼女が何かを刻む手を止めて、こちらを振り返る。その拍子に、右肩辺りで一つに纏められた髪がふわりと揺れる。あのふわふわとした飾りは、何と言うのだったか。
「……すす?」
「はあ?なに、煤がつくようなことはしてないけど」
「ちがうちがう、髪のやつ」
「ああ、これ?シュシュね、おじさんみたいなこと言わないでよ」
「あー、それそれ。んで前髪のがベレッタだっけ?」
「それ拳銃。こっちはバレッタ」
ほんとどうしたの、と呆れたような表情を浮かべる彼女に、がしがしと後頭部を掻く。適当に結んでいた髪が余計にひどくなった気がしたけれど、そこはまぁどうでもいいか、なんて首を振っては不思議そうにこちらを見つめる彼女を手招く。手にしていた包丁を置いて、素直にこちらへ来る彼女の丸くなったこと。そういえば彼女が選ばないであろう、裾に小さくレースのついた白いエプロンは自分がプレゼントしたものだった。文句を言いながらも使ってくれた彼女を、初めて見たのはいつだったか。鮮明には思い出せないくらいの時間を、共に過ごしていた。
「みどりちゃぁん」
「はいはい、なによ。なんかミスったわけ?」
二人掛けソファーの隣に沈む、柔らかな身体を抱きしめる。筋肉質だと彼女は言うけれど、それでも自分にとっては柔らかで、魅力的な身体にしか思えない。彼女も身長は高いほうだけれど、それでも自分のほうが高いから、腕の中でこちらを見上げる彼女の額に軽く口付ける。途端に眉間にしわを寄せるのは、彼女なりの照れ隠しだった。少しだけ身体を離して、右の頬から瞼にかけて伸びる傷跡を指先でなぞる。むず痒そうに身を捩りながら、背中を軽く叩かれた。
「ちょっと、本当になんなの?」
「みどりちゃん、」
「だから、なに」
「俺さぁ、もうすぐ30になるわけよ。んで、みどりちゃんも今年23、だったか?わけぇよなあ、」
出逢ってから、それなりの年月は過ぎた。セーラー服を着て、ネイバーを睨んでいた少女はもういない。ここにいるのは惚れた贔屓目なしに美しく強かに成長し、様々な経験を積んだ一人の女性だった。
ああ本当は、もっと小洒落たところに行くべきなのだろう。もしかしたら、彼女にも『理想』と呼べるものがあったかもしれない。それでも、いま言いたくなったのだから仕方がない。何日もポケットの中で眠り続けていたものを取り出す。ポケットに入れるには邪魔だからと箱から出していたけれど、彼女に似合うと思って選んだときから輝きは失せていない。綺麗に彩られた爪が映える細い手をとり、薬指にはめていく。ぴたりと収まったそれに満足感と達成感が胸を占める。驚いた表情を浮かべる彼女に軽く口づけ、そう、あの言葉を告げなくてはならない。
「俺と、結婚してください」
俺が幸せにする、なんて言葉は彼女には似合わない。自分の幸せくらい、自分で掴み取ると笑う子だから。かと言って、幸せにしてほしいなんて少し女々しい気もするから。俺と幸せになってよ、なんてこっ恥ずかしいことを言ってみる。陳腐な言葉だと笑われてもいい。あり触れた幸せこそ、最大の幸福なのだから。
表紙 /
top
エメラルドが溶けた