「羽純ちゃん」
「……はーちゃん?」

 引退するんです、と。何か憑き物が落ちたような顔で、はーちゃんはこの間、そう言った。驚きに驚いて、こうくんにふらついたわたしの身体を支えられたのは、わりと記憶に新しい。そんなわたしを見て苦笑したその人はしかし、わたしを見て、ふんわりと笑ったのだ。わたしははたと目を瞬かせる。――はーちゃんは決して、こんな笑い方をしなかったのに。諏訪さんのおかげ、というのは癪だが、あの人のおかげで、はーちゃんがここまで変わることが出来たのだと思うと、嬉しいような、悔しいような。そして今日は、それがあった時から三日三晩経った日だった。あの日、はーちゃんはわたしにランク戦を挑んだ。

「羽純ちゃん、ランク戦をしましょう」
「え、」
「ずっと共に居た愛しい子と一戦を交えて、全てを――全てを、終わらせようと思いまして」
「あの、でも、はーちゃん、」
「はい、どうしたんですか?羽純ちゃん」

 本当にわたしでいいの。その声は、むに、と掴まれたわたしの頬に吸い込まれる。「……わかった」。わたしはそう言った。約束の日は、そう。今日だ。わたしとはーちゃんがランク戦をする予定のルームの観覧室には沢山の人がひしめいていて。その中にはお兄さんとか、匡貴くんとか、望ちゃんとか、こうくんとかも、当たり前のように居るのだ。弟子の前で負ける訳にはいかないし、それに。
 わたしははーちゃんが大好きだけど、前線から退くことまでは許容出来なくて、だから、気持ち良く終わらせるなんて、してやらない。

「トリガー、起動」

 わたしの服装はラフな私服から七々原隊の王子様然とした隊服に変わる。トリオンが身体を迸り、気が漲る。この緊張さえ、心うちに抱いてしまえば、わたしの戦いを支えてくれる。送られたルームの設定はほぼ無設定で、トリオン切れだってあるし、一度そこを切られれば回復しない。そういう設定にしてあるから。向こうにいつものはーちゃんが見える。わたしはひとつ、息をついた。長年のわたし(弟子)とはーちゃん(師匠)に、始めの合図なんていらない。

 弧月の名の通りに綺麗な弧を描く斬撃を受け流して、スパイダーのワイヤーを張り巡らせる。それによって怯んだのか、一瞬動きを止めた相手にアステロイドを撃ち込むも、弧月で一閃。

「気持ち良く引退なんかさせないから……!」
「――強く、なりましたね、羽純ちゃん。あなたは変わった。同時に、わたしも」
「、何を」
「昔はあなたが、わたしを太陽の下に連れ出してくれた」
「……そんなの、わたしだって、わたしだって羽由ちゃんに支えられて、歩いてこれて……」
「それでも何かが変わったのは、きっと」

 離れた場所にグラスホッパーで飛び、はーちゃんの上から、ギムレットを撃つ。はーちゃんはアステロイドを飛ばして半分を撃ち落とし、逸れた残りをシールドで防ぐ。でも、自分で言うのもなんだけど、わたしのトリオンは多い方で。防ぐためのシールドは割れて、ほぼノーガード状態だ。砂煙が立ち込めるけど、その煙にさえ切り込む、はーちゃんの、弧月。その斬撃が入ってきた場所にメテオラを撃とう、として、ふと気付いた。

「わたしの、左手……!」
「さあ、羽純ちゃん」

 サブトリガーはもう使えない。サブにセットしているのは、スコーピオンに、アステロイドに、メテオラに、ハウンド。メインにセットしているのは、弧月に、スパイダーに、グラスホッパーに、アステロイド。先程張っていたはずのワイヤーは全て斬られていて。つまりこれは。

「全部はーちゃんの思い通りってこと……」
「ふふ、そんなことはありませんよ」
「…… 羽由ちゃんは、変わったよね。昔、わたしが羽由ちゃんと遊ぼうとした時は、いつも断ってて」
「あの時はただ、強くなりたかった。けれど、何度断っても、羽純ちゃんはわたしに、話しかけてくれましたね」
「わたしが兄さんを失った時、寄り添ってくれて」
「わたしを連れ出してくれたあなたに、何か恩返しが出来れば、と思ったのですが、ただ普段通りにするしか出来ませんでした」
「すごく、心強かったよ。羽由ちゃんが居なかったら、わたし今、ここに居なかったと思う。それでもわたし達、どうしても蟠った気持ちを無くすことは出来なくて」
「……そうでした。誰かに姉妹と見られたこともありましたね、面倒な姉妹だ、と」
「本当は。わたしだって、羽由ちゃんを、引っ張り上げたかった。大好きな羽由ちゃんだから」
「わたしも、あなたを羽ばたかせたかった。あなたの煌めく星への憧憬は、隣で見てきましたから」

 わたしは弧月を構えた。この剣は、羽由ちゃんからの預かりもの。大切な、つるぎ。

「でもいいの。もう、いいの。羽由ちゃんはもう、自分の死を覚悟してでも、誰かを助けることはしない。わたし、羽由ちゃんが生きてくれれば、それで良かったから。羽由ちゃんを変えたのがわたしじゃないのは、ちょっと悔しいけど」

 わたしのギムレットの量は、多い。先程ぶつけたギムレットはほぼノーガードのはーちゃんに確かなダメージを与えていて、はーちゃんはボロボロだ。そんなわたしも、はーちゃんに片手を斬られていて、今もトリオンが漏れている。

「それはあなたも同じです、羽純ちゃん。あなただって、変わった。卯月さんを失って、全てを背負い込んで、自分は死んでも構わないと思っていたあなたは、もう居ないでしょう?」

 砂煙は疾うに姿を消していて、はーちゃんが弧月を構える姿が良く見える。はーちゃんに教えて貰った剣術。勝手に真似をした弧月の構え。同じ弧月の持ち方をして。

「――気持ち良く引退なんか、させないから!」

 同時に走り出して、弧月を切り込む。はーちゃんの弧を描いたそれはわたしの心臓の少し上を貫いていて、わたしの月は、はーちゃんの心臓を穿っていた。

「強くなりましたね、羽純」
「あなたのおかげだよ。ありがとう、……羽由姉さん」

 はーちゃんは満足そうに微笑みを浮かべた。トリオン体が解けていく。訓練室の設定が解除されていって、生身の姿を現したはーちゃんの姿には、違和感があって。

「はっ、はーちゃん!?」
「似合っていますか?髪を切ったんです」
「に、似合ってるけど、似合ってるけど……!」

 はーちゃんの長い髪は、ボブカットに変わっていた。この髪型も可愛くて好きだけど、でもショックであることに変わりはなくて。くらり、と身体が傾いた。その時、明るめのブラウンがわたしの視界に入り、その髪の持ち主の手がわたしを支える。

「お前が卒倒してどーすんだよ……」
「ごめん、こうくん……」

 いの一番に駆けてきたらしいこうくんの後ろには、ボーダーの黄金時代を支えてきた人達が軒並み揃っていた。匡貴くんは当たり前だという顔をしていて、望ちゃんはそんな匡貴くんをつついている。お兄さんは案の定、はーちゃんに戦闘を挑んで、諏訪さんに断られていて。報告することがあったわたしとこうくんは、顔を見合わせた。

「――あのね、はーちゃん」

 わたしとこうくんは肩を並べる。わたしが放った言葉はそれなりに大きい声となって、そこにいた人達の視線が集まった。

「おれ、七々原公平になるんで」
「わたし、こうくんと籍入れるから」

 その言葉と共に、訓練室が一瞬固まる。まず走ってきたのは慶お兄さんと、匡貴くん。旬とちーくんには元から報告していたし、迅くんも視ていたんだろうから、このメンツは予想通りといったところか。はーちゃんの方を見ると、はーちゃんは目を丸くして、左手で口元を隠している。ふら、とバランスの崩れた身体を支えたのは、当たり前のように諏訪さんで。

「え、婿入り……?」「マジかー!」「そっちの方が先だったか」「羽純ちゃん式には呼んでね」「お前マジでか出水……」

 ざわり、とし始めたその場で。幸せそうにはにかむはーちゃんを見た。結局、気持ち良く引退させてしまった、ということになるんだろうか。こうくんに撫でられている頭で、そんなことを考えた。


(あめさんより)



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