喧騒と怒号に混じり、数発の発砲音が響き渡る。額に青筋を浮かべた細身の男──入間銃兎は、己の得物でもあるグロック18を胸元へとしまい、手榴弾のピンを歯に挟んで抜き、後ろへと放り投げる。鼓膜を震わせるような爆発音と共に幾つかの悲鳴が上がるが、銃兎は気を向けることもなく路地裏を駆けていく。
手榴弾とは言っても、中身は爆薬等ではなく涙腺を刺激する胡椒や唐辛子で、実際手榴弾に巻き込まれた連中も顔中を体液で濡らし地面を転がっているだけで、血を流しているものはいない。本来であれば何らかの公的機関が動くであろうこの事態も、半ば無法地帯と化した此処、ヨコハマでは関係のないことだった。
数年前までは、何十年と昔からヨコハマにおいて荒事を担ってきた碧棺家を筆頭にして、幾つかの家によってヨコハマの治安は守られていた。日夜共に警備隊が街を見廻り、住民の安全を守っていた。綺麗な海と面した港町は活気があり、人々の流通も多く、盛んだったものだ。それが崩れたのは本当に、ほんの数年前のこと。ヨコハマの財力を担う市松家に起きた悲劇が、均衡を保っていたヨコハマの勢力を狂わせた。とは言っても、その事実を知っているのは上層部の極一部の人間だけで、表向きは今も市松家は政権を握っている。
先ほどの乱闘で着崩れてしまった襟元を正し、袖についた埃を手の平で払った銃兎は、迷いなく路地裏を抜け大通りへと出る。通りすがりの子供が思わず泣き出してしまうような悪人面のまま、取り出した携帯電話を発信する。
「……おいこら、ハメやがったな!?テメェのケツくらいテメェで拭けよ…!」
「おー、無事だったか。もうすぐ会合があんだからさっさと帰ってこいよ、市松の嬢ちゃんも待ってんぞ」
「はァ?ふざっけんな、オイ!切ってんじゃねえ!」
呑気な男の声が聞こえた後、冷たい電子音が一定の間を開けて鳴り続ける。言い足りない文句が、噛み締められた歯の奥に消えていった。どうしてこうも自由人が多いのか、銃兎の悩みは尽きない。それでも銃兎の脚は淀みなく動いていく、全ては自らの望みと平穏のために。ヨコハマで2番目に大きいと名高い、碧棺の屋敷へ。
重厚な質感を出す扉を押し開ける銃兎の、腹部に柔らかな温もりが纏わりつく。反射的に受け止めてしまった自身に舌打ちをして、腕の中を見下ろす銃兎の耳に、砂糖を煮詰めたような甘やかな声が届く。
「逢いたかったですう、銃兎さんっ」
「……女性が、そんな風に抱き着くものではないですよ」
「恋人にはいいでしょう?」
「恋人ではないから申しているんです」
「もう、可愛い人。照れ屋さんなんだから!」
会話をしている気にもなれない、何処かズレた返答をする女性、と言うにはまだ些か年の若い彼女。誤魔化しようのない頭痛を覚えて、銃兎は右手で眉間を押さえる。部屋の奥にある革張りのソファーで、にやけ面をしている碧棺家の当主──碧棺左馬刻に向けて怒鳴り散らしたい衝動を深呼吸をすることで押さえて、半目を向ける。
「……それで?今日は一体、何の用なんですか。集まりがあること自体、初耳なんですが」
「ああ、それな。──おい、市松の」
「はい?何ですか?」
「テメェ、瑞季、つう名前に覚えはねぇか」
瑞季、の3文字に僅かばかりに目を見張り、未だ抱きついたままの少女を見下ろした銃兎の脳裏に、十数年と昔に一度だけ見たことがある幼い女の子の姿が浮かぶ。ボロ布を継ぎ合わせたような服を着て、薄汚れた姿のまま、それでもなお瞳だけは輝きを失わずに、幼い左馬刻を連れていく銃兎たちを見詰めていた。暴れる左馬刻の言葉に一度だけ頷いた、あの女の子の名前は確かミズキではなかったか。疑問符を浮かべる銃兎の視線の先で、少女──市松香久耶はその整ったかんばせに、作り物めいた微笑を貼り付ける。
「どなたですか?聞き覚えは、ありませんが」
「……そうか、それならいい」
香久耶の返答に、興味を失ったように視線を逸らす左馬刻を見て、また舌打ちをする。嘘だ、と思った。自身がよく知る2人は、2人して嘘をついている。怯えるように、強がるように腕へと縋る香久耶をそのままに銃兎は己がボス、左馬刻を仰ぐ。いつもの不遜な瞳と視線が重なることは、ついぞ無かった。
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愛も憎悪も白い皿の上