凍てつくような寒さの中、絶え間なく降り注ぐ罵倒と暴力から身を守るように蹲る。下卑た嘲笑と共に熱した鉄が背中へと押し当てられて、肉が焼ける音と醜悪な臭いが辺りへと広がる。とうに潰れた喉から嗄れた悲鳴が響いているけれど、痛みを受け流すことに必死でどこか他人事のようにさえ思える。

魔力があるから。魔女に生まれたから。たったそれだけのことで、同等には扱ってもらえない。怨めしい、憎らしいと抱いたその感情のままに動くことができたなら。赤黒く血が滲む頬を、枯れることを知らない涙が伝う。

魔女は、魔法使いは心で魔法を使う。思うままに、感じるままに想いを魔法へと変える。このままでは激情と魔力に身を委ね、地獄で燻る業火のように焼き尽くしてしまいそう。四肢を冷やす雪を握り締め、悪意から逃れようと踠いていれば不意に身体を押さえつける重さが消える。

「なんだか美味しそうな音が聞こえたかと思えば、随分と面白いことをしているんだね」
「ぅ、あ゛……っ」
「ああ、きみは話さなくてもいいよ。喉が潰されているね、かわいそうに」

幼子を宥めるような声色で、汚れた髪を撫でられる。歌うように紡がれた呪文は、この身を切り裂くような痛みを和らげてくれる。まさか、まさか。助けられるなんて夢のまた夢だと思っていたのに、朧気に揺れる視界で見上げれば鮮烈な赤色がこちらを見下ろしている。愉悦と同時に、氷のように冷えた眼差し。途切れかける意識が、夢の終わりを告げている。── あなたのおなまえ、なあに。



ざらついた感触が頬を撫でる。微睡から抜け出すようにゆっくりと目蓋を開けば、カーテンの隙間から差し込む朝日が室内を照らしている。肌触りの良い柔らかな布団から体を起こして、ぐいっと背筋を伸ばす。

「おはよう、アリコ。今日も起こしてくれてありがとう、素敵な朝ね」

アメリアを起こして一仕事を終えたとばかりに寝具へと寝そべる、シルバーグレイの毛並が美しい猫へと身を屈めて口付けをひとつ。いつの頃からかこの家へと出入りするようになった猫、アリコはアメリアにとっては家族のようなもので妹のように可愛がっている。中でもとびきり気に入っている熟れた苺のようにつぶらな瞳は、見ているだけで『彼』を思い出して胸が切なく締め付けられる。

甘やかに微笑を零したアメリアは、名残惜しそうに寝具から離れるとすぐ傍に置いてあった魔道具を手に取り水場へと向かう。ひんやりと心地良い水で肌を整えたあと、鏡台の前に座りながらてのひらを一振り。宙へと浮かぶブラシに撫でられる髪が艶やかになっていく姿を見ながら、使い慣れた化粧道具で身支度を整えていく。

長い睫毛は夜空を映した瞳を縁取るようにしっとりと、頬は薄紅の薔薇のように色付かせていき、柔らかな唇も甘く色を乗せる。アメリアは南の国の魔女で、ただの薬屋であるけれど身支度にはいつだって手を抜かない。いつか、もしもがあるかもしれないのだから、いつ『彼』と出逢ってもいいように綺麗であろうと心掛ける。

魔道具でもあるシルクのリボンで髪を結い、足元まで隠れるほどのロングワンピースを身に纏えば鏡の前で一回転。満足そうに頷きながら未だ寝具へと寝転がるアリコへと声をかけて、昨晩用意していたバスケットを手元へと呼び寄せる。朝食はあまり、食べないことのほうが多い。

「お留守番お願いね、アリコ。今日はフィガロ先生のところと、ルチルに呼ばれているから学校へ行ってくるわね」

ずっしりと重たいバスケットの中には、フィガロやルチル、近隣に暮らしている人々に頼まれた薬が詰まっている。風邪薬に胃薬、赤切れによく効くクリーム、気持ちを落ち着ける薬。ハーブや薬草の扱いを得意としているアメリアの仕事は、みんなのために薬を作ること。この仕事が、醜い魔女であるアメリアを受け入れてくれる南の国へできる恩返しだと、アメリアは思っている。

繊細なフリルに縁取られたワンピースをひらりひらりと揺らしながら、暖かな日差しの中をゆっくりと歩いていく。仕事へ向かう人、学校へと向かう人で溢れるなかで時折呼ばれるアメリアの名前は親しみが込められていて、柔らかい。

こうして名前を呼ばれるたびに、ちっぽけなアメリアの胸はぽかぽかと温かくなっていくのだから、心とはつくづく不思議なものだ。柔和に目許を和らげていると、小走りで駆け寄る足音が聞こえた後に腕から重みが消える。隣を見ると、アメリアが弟のように思っている魔法使いのミチルが、アメリアを見上げていた。

「持ちますよ、アメリアさん!」
「あらあら、おはようミチル。優しいのね、ありがとう」
「おはようございます!これくらいどうってことないですよ。あの、学校に行くんですよね?」
「うふふ、そうよ。今日は傷薬を持ってきたの、怪我は魔法で治しすぎてもあまり良くないものね。ルチルにお願いされていたものよ」
「ありがとうございます、ボクの膝もアメリアさんの傷薬を塗ったんですよ。効果抜群です!」
「そう、嬉しいわ。もう痛くはなあい?」

もちろんです、と胸を張る姿の愛らしさに思わず、その柔らかな髪を撫でる。途端に照れ臭そうにはにかむ姿は人の子と大差はなく、魔法使いと言われなければ何も違和感はない。こうした姿を見るたびにアメリアの心は吹雪にあてられたように凍えそうになるのだけれど、俯くと自然と視界に入る赤い髪色が灯火のように支えてくれる。もう何十年と恋焦がれる『彼』がいる限り、アメリアの心が陰ることはない。恋する魔女は、とても強いのだ。

ミチルの心配そうな視線に笑みを返しながらバスケットを受け取り、その中からいくつかの小包をミチルへと手渡す。さあ、と優しく背中を押しながら少し離れたところに見える校舎を指差して。

「ありがとう、ここまでで大丈夫よ。あとはこの小包みをルチルへ渡してくれるかしら?」
「それはもちろん!ですが、大丈夫ですか……?」
「ええ、いつも心配かけてごめんなさいね。少し考え事をしていただけなのよ、今はとても元気だもの」
「そうだったんですね、よかったです!」
「うふふ、ありがとう。またゆっくりお話しましょうね」

元気の良い返事と、駆けていく背中を見送る。ミチルが進んだ道とは、また別の道を歩みフィガロが待つ診療所へと向かう。そこまで離れてはいないから、数分歩き続ければ診療所が見えてきた。

診察待ちをする患者の間を通りながら受付へと向かえば、アメリアが姉のように慕っているジュリの姿が見える。忙しそうな様子を見てしまえば声を掛けることに戸惑ってしまうけれど、立ち尽くすアメリアに気づいたのは、やっぱりジュリだった。

「あれ、もう約束の時間やった?ごめんなあ、アメリアちゃん。フィガロは診察中なんよ、少しだけ待っててな」
「いいえ、ジュリ様。忙しい時に来てしまってごめんなさい、少しと言わずいくらでも待つわ」
「おや、酷いなあアメリア。俺がそんなにきみを待たせると思うのかい?」
「あらあら、おはようございますフィガロ先生」
「おはよう。……ああ、今日も夢を見たんだね」
「あれ、ほんまや。今日の『彼』はどうやった?」

バスケットを受け取りながら、フィガロは面白いとばかりに双眸を細める。アメリアが恋焦がれる『彼』の夢を見ると、フィガロやジュリはどうしてだか気付くのだ。アメリアが理由を尋ねても答えが返ってくることはなく、見透かされているだけの感情が気恥ずかしい。けれども、否定をされないことが嬉しいといつも複雑な気持ちになってしまう。

アメリアは胸元まで垂れる毛先を、指先でくるくると弄りながら頬を緩ませる。元々は生まれ落ちた国のような色をしていた髪は、『彼』に焦がれるあまり長い年月をかけてガーネットのように染まっていった。何も映していなかった瞳は、『彼』と出逢った時と同じ夜空の色を映すようになった。胸を締め付けるこの感情をどう呼ぶのか、アメリアは知っている。

「とても、とっても素敵だったわ」

花が綻ぶように、大切な秘密を告げるように紡がれた言葉にフィガロは肩を竦ませる。早く逢いたいね、とアメリアの頭を撫でながら、ジュリは短く息を吐いた。可愛がっている親戚のような、妹のようなアメリアが恋をするのはいいことだとは思う。思うけれど、魔女の魂を変えてしまうほどの恋とはいったいどのような出逢いをすれば、こうなるのだろう。

しあわせそうに微笑むアメリアに問うにはあまりに無粋で、誰も真実を知らないでいる。夢の中で逢瀬を繰り返す『彼』との始まりは、アメリアの心にしっかりと鍵を掛けられて、花開くときを待ち望んでいる。





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ふわりと揺らめくローズマリー