なにひとつ、不自由のない生活だった。裕福ではないけれど貧しさを感じることはなく、優しい父と母との3人暮らし。もうすぐしたら弟か妹が生まれるのよ、と膨らんだお腹を見て微笑う母の横顔が好きだった。
父はいつも、わたしに言っていた。生まれる子が弟でも、妹でも、姉として手助けして、守ってほしいと。わたしのことは父が守るから、わたしには下の子を守ってほしいと。わたしは父に頼られていることが嬉しくて、何度も頷いていた。まだ生まれてもいないのに、母のお腹にだって何度も声をかけた。
どんな子に育って、どんな風に呼んでくれるのかなって、ずっとずっと楽しみにしていたの。ほんとうよ。弟だったら「姉さん」、妹だったら「お姉ちゃん」なのかな、なんて考えたりもして。すごく、すごくしあわせだった。
それなのに、しあわせが崩れるのは一瞬のこと。身重の母に代わり、買い物に出たはずの父の帰りが遅かった。夕餉を終えて、寝支度を終えても帰ってくることがなくて、母は不安そうにしながら「きっと、ご近所さんとお話をしているのよ」と言って、わたしを寝かしつけようとした。
とん、とんと布団の上から優しく叩く手のひら。小さく聴こえる子守唄に、うんと瞼が重たくなったから、そのまま眠ろうとしたの。戸がカタンと音を立てて、開くまでは。
「……ぉ、とう、さん?帰ってきたの?」
「そうね、ちょっとあなた?どこに行っていたの、……ッあ゛、なに、」
「おかあさん?」
わたしから離れて、音がしたほうへ向かった母の苦しそうな声。布団から這い出て、母のほうへ向かう。途端、なにかの破けるような音と、いつまでも耳に残るような悲鳴が響いた。それから、高いところから水が滴る音と、その上になにかが落ちる音。
驚いて身を竦ませるわたしに、母が「逃げて」と叫ぶ。逃げる、母を置いて逃げるなんて、わたしにはできない。暗がりのなかで一歩踏み出すと、入口から差し込む月明かりが惨状を教えてくれた。
「……っ、おかあさん!」
異形の者に首を掴まれて、持ち上げられている母。苦しそうに踠く両脚から、動くたびに血が飛び散っている。その足元には夥しい量の血と、赤黒い塊が転がっていた。あんなに大切に、優しく撫でていたのに。
台所に走って、最も刃が大きい包丁を掴む。料理のお手伝いをしている時は、わたしにはまだ早いと言って触らせてもらえなかったけれど、だからこれしかないと思った。だって、よく切れるんだもの。
両手でしっかりと握って、何度も腕を切りつける。母は碌に息だってできていなのに「やめて」と「だめ」を繰り返していた。いま思えば、母はずっと分かっていたのだと思う。どんなに痛くて、苦しくても。異形の姿になっていたとしても、この化け物が誰なのか。
肉を断つ感触の気持ち悪さに耐えながら、異形の腕や体に包丁を振り下ろす。月明かりが照らすたび、傷が治っていく様を見せつけられて絶望する。どうしたって、母を取り返すことができない。涙が溢れ出る。
「……はより、ごめ、ね」
「おかあさん!まって、いま助けるから!」
「にげて、……いき、て」
しあわせになって、と微笑った母の首がゴキッと音を鳴らして折られる。母の足元にあった赤黒い塊は、異形が動くたびに踏み躙られた。もうすぐ生まれてくるはずだった、わたしの可愛い弟か、妹。手から包丁が滑り落ちる。
力が抜けて座り込むわたしの前で、異形は大きく口を開けた。もう、動けない。少しずつ母が形を失っていくところを、ただ見ていることしかできなかった。母を食べ終わると、次はわたしの番なのだと思う。それなら、それで良かった。
母は生きることを願ったけれど、こんな光景を見て正気で生きていられるわけがない。生まれてくるはずだった子を踏み潰され、母が食べられて、何度も異形を――父を切りつけた。途中で気づいてはいたけれど、父ではないと思いたかった。
姿形はすっかり変わっていたけれど、着物も帯も、父が気に入っていたもの。異形が父だったから、母は何度もわたしを止めたの。分かっていたけれど、止まれなかった。だって、父が言っていた。姉として、守ってほしいと。わたしを守るのは、父だからと言っていたから。
「おとうさん、約束まもれなくて、ごめんね」
骨さえ噛み砕いて、母を食べ終えた父が、わたしを見る。鋭く伸びた爪がこちらへと伸ばされる。目を閉じることはなかった。最期まで、見ていたかった。だから、その瞬間を見逃すことがなかったのだけれど。
なにかが飛んできて、父の頸が転がっていく。わたしが斬りつけた時は、傷は繰り返し塞がっていたのに今度は治ることがない。ゆっくりと崩れ落ちていく体の奥から、わたしの倍はありそうな巨躯が現れた。
斧と鉄球を両手に下げながら、はらはらと涙を流す男のひと。助けられたのだと気づいて、安堵よりも静かに絶望した。この地獄を、わたしは生きていかなくてはならないのかと。
それが、悲鳴嶼さんとの出会い。わたしが鬼殺隊を目指すことになった日の記憶。
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赤坂さん in鬼滅_弐