モニターに映る「こんばんは〜」と朗らかに笑う姿に、溜息を吐くことしかできない。嫌だわ、また幸せが逃げた。指に挟んでいた煙草を咥えて、深くゆっくりと息を吸う。
じり、と燃える巻紙に心を落ち着かせているとモニターに映っている男は、「あれ?聞こえてへんのかなあ」なんて呑気に手を振り出した。
もう少し無視をしていても良かったけれど、基本的に家から出ないものだから、いまも澄香が家にいることは気づかれている。ふ、と息を吐きながら渋々とボタンを押した。
「近所迷惑よ、帰って」
「ええ〜?近所って言うほどの距離にだぁれもおらんやん」
「煩いわね。……今日はなに?」
「澄香さんに会いに来てん。なんや、顔見たいなあと思って」
「帰ってくれる?」
「うそうそ、ちゃあんと用事もあるって。はい、預かりもん〜」
ガサ、とモニターに映るように掲げられた紙袋。下ろしたままの髪を混ぜるように掻きながら、灰皿へと煙草を押し付けた。
裸足のまま、ぺたぺたと廊下を歩く。適当なサンダルを引っ掛けて、玄関の扉を開くとモニターで見た時と変わらない、へらりとした笑顔が向けられた。胡乱な目を向ける澄香を気にも留めず、「やっと会えたわ〜」と笑う男の首に汗が伝っている様を見て、少しだけ胸が軋む。
分かっている。この男にとって届け物は建前で、澄香の顔を見ることが本命だってことくらい。更に言えば、嫌がる顔を見るために来たことくらい、分かっているけれど。無言で差し出した手に、紙袋の持ち手が掛けられる。
「ほな、ちゃあんと渡したんで帰りますう」
「……水」
「うん?」
「どうしてもって言うなら、水くらい出すけど。熱中症で倒れられても、みんなが困るから」
「澄香さんは困ってくれへんの?」
「私は、むしろ清々するわね」
「わは、今日も切れ味えぐ〜」
きょとんと丸くなった目は、すぐに弧を描く。どうするのよ、と言葉にすることなく睨みつけると「ほな、いただいていこかなあ」と笑う姿に内心では舌打ちをする。ああ、面倒臭い。
扉から一歩下がると、受け取ったばかりの紙袋を澄香の手から掬い取り、慣れた様子で室内へと進んでいく後ろ姿が腹立たしい。玄関で揃えられた靴にすら苛立って、軽く唇を噛みながら施錠をする。本当に、調子が狂う。
リビングに戻ると紙袋はテーブルに置かれていて、本人は水槽を覗き込んでいる。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをグラスに注いで、わざと音を立ててテーブルへと置いた。
「飲んだら、さっさと帰って」
「はあい、分かってますって。お水、おおきに」
グラスを片手に、水槽で泳ぐ熱帯魚へと「澄香さんは優しいなあ」と話しかける姿に眉を寄せる。当てつけかしら。この男が、樋宮が同じ部屋にいるといつも落ちつかない。意図的に組んだ腕に、ぎゅっと力を込める。
嫌いだと言うことは簡単で、態度にだって出して示している。近づかないでほしい。それなのに、へらへらと笑って気づけば隣にいる。その笑顔を見るたびに、心の柔いところが少しずつ軋んでいく。
「澄香さん、澄香さん」
「……なに」
「そんなに警戒せんとってや、なぁんにもせえへんよ」
薄く笑う口許が『いまは』と動いたような気がして顔を背ける。怖くて、気味が悪くて堪らないのに、知らないうちに心が侵食されている。まるで崖っぷちに立たされているような、断頭台に立たされているような心地。早く帰って、と零した声はみっともなく震えていた。
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傷はなくても沁みるもの