「Aporiaにおいでよ」
そう言って差し出された手を澄香がとったのは、ドラマや小説みたいに『なにかが変わる予感がした』だとか、そういった特別な理由はなくて。ただ、今よりも気持ちが楽になると思ったから頷いたに過ぎない。
澄香がもつ薬効体質はアルコールを摂取しても酔いにくかったり、何の影響も受けない麻薬があったりと便利なこともあるけれど、それと同じか――それ以上に、不便なことも多い。
風邪を引いても市販の風邪薬では効果がなかったり、怪我をして治療のために麻酔を使いたくても難しかったり、ただ普通に生きていたいだけの澄香にとっては不便な割合が占めることのほうが多かった。
だから、どうにかしようと思った。少しでも体質を和らげることができれば、そう思って研究職についたのは良いけれど、今のところ効果は見られない。
同僚の人柄はともかく、職柄は信用していたけれど体質を相談する気にはならなくて。このまま一人で生きていくのだと思っていた澄香にとって、確かに転機ではあった。
澄香の研究データが盗まれて、Aporiaの警護のなかで過ごした数日は薬効体質を知りながら、澄香を害さない他者と初めて過ごした期間だった。あえて話題にすることもないけれど無理に隠すこともない数日は、いつもより息がしやすいと感じた。だから、スカウトに頷いただけなのに。
「すーみかさん、休憩にせえへん?」
「しない」
「澄香さんの好みが知りたくて、いろいろ持ってきてん。紅茶やろ、珈琲やろ〜?ほら、お菓子もあるで」
「結構よ、甘味は得意じゃないわ」
「そう言われた時のことも考えて、甘さ控えめのやつもあるんよ」
勤務時間内であれば、スタッフは研究室に出入りできるように設定はしているけれど、用がないなら来ないでほしい。額に手を当て、重たく溜息を吐く澄香が見えているにも関わらず、呑気に笑う姿に頭が痛くなってくる。
特務部での仕事は問題がない。極稀にカフェやバーの手伝いに呼ばれることもあるけれど、それも月に数回の程度だから負担にもならない。仕事は順調なのに、いま目の前にいる男の存在が澄香を悩ませていた。なにが琴線に触れたのかは知らないけれど、なにかと関わってくる存在。
正直に言えば、甘いものが嫌いというわけではない。ただ、明星に好みを知られることが癪なだけで。テーブルに並べられるものを視界から外して、モニターへと向き直る。無心で作業をしていれば、そのうち明星も飽きて帰るだろうから。
血色の悪い指先が、迷いなくキーボードを叩いていく。甘い香りが鼻先を掠めたけれど、澄香が振り返ることはなかった。
◆
凝り固まった肩を解すように、両腕を頭上に伸ばす。関節からパキ、と音がして細く息を吐いた。随分と長い間、集中していたように思う。とん、と腰を叩きながら少しだけ休憩しようと席を立ち、視界に入ったものに動きを止めた。
「はぁ……?」
菓子類に囲まれるように、テーブルに突っ伏して眠る明星の姿を二度見する。途中から声が聞こえなくなったからとっくに帰ったと思っていたのに、眠っているなんて予想外のことで。恐る恐る近付くと、やたらと端正な顔が穏やかに寝息を立てていた。意味が分からない。
起きなさい、と肩に触れる。服越しでも分かる体温に驚いて、慌てて手を引く。生きているのだから体温があることは当然なのに、体温があることに驚いた、なんて。指先に残る熱を消すように、指を擦り合わせる。知らずのうちに止めていた呼吸を、再開するためにそっと息を吐いた。
「んん、」
「……っ」
「あ〜……うっかり寝てしもた。澄香さん、仕事終わったん?」
「終わって、ないわ。少し、休憩しようと思って」
「ほんならお茶にしよ、こんなにお菓子あるんやし」
寝起きの目元を摩りながら、にこやかに話す明星に1歩だけ後退る。きゅ、と口を噤む澄香に2、3度と瞬きを繰り返した明星が「なんや、幽霊でも見たん?」と告げる。幽霊と同じくらい理解ができない存在を一笑することが、澄香にはまだできなかった。
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安息の地など有りはしないので