前触れは、ほとんどなかったように思う。特務部の代行依頼に関わった際、芦佳さんからスカウトされたこと以外はほとんど情報がないまま、彼女はAporiaのスタッフになった。
初めて顔を合わせたのは、カフェの開店前。かみやんと衣都さんに連れられた彼女は表情が乏しいけれど、その動作の一つひとつが洗練されている、うつくしいひとだった。その日は俺を含む交際部がシフトに入っていたけれど、俺たちの顔を見ても顔色ひとつ変えず、淡々と紡がれた挨拶を覚えている。
「特務部に配属されました。薬袋澄香と申します、よろしくお願いします」
「はい、どーぞよろしく。交際部部長、綾戸恋です。こっちは手前から宇京真央、環野揺、樋宮明星。聞いてるかもしれないけれど、全員交際部です」
軽く頭を下げるまおちとゆらの隣で、緩く手を振ってみる。恋さんが伝える名前の順に視線を動かしていたけれど、最後は瞬きひとつで終わってしまう。ありゃ、と振っていた手を下ろした頃には、涼やかな視線は恋さんへと戻っていた。
表情だけではなく、感情すら揺らぎがない。細波ひとつない水面のように、静かに広がっている。その横顔を見て真っ先に思ったのは『揺らいだらどうなるんやろ』という好奇心。なにかと聡いまおちと目が合うけれど、へらりと笑みを返す。考えるくらい、ええやんなあと思って。
「俺たちはやりたくないことはやらないがモットーだから、嫌だと思ったら嫌で大丈夫なんだけど。砕けて話しても平気なひと?」
「……砕ける、とは?」
「敬語じゃなくても平気?ってこと。あ、あと、呼び方とか気にするタイプ?」
「特には。話しやすいのであれば、そのようにしていただけると。呼び方もお任せいたします」
「おっけ、それなら澄香って呼ぶわ。俺も恋でいーよ、みんなそうだし」
「……はぁ、そうですか」
困惑と、動揺。瞬きひとつで収まったけれど、その瞳に初めて浮かんだ感情に釣られて前に出る。小さい声でも聞こえとるよ、ゆら。「うわ」はひどいんちゃう?なんて思いながら口を開く。
「ほな俺も、澄香さんって呼ばせてもらいます〜。年上って聞いてるんで。俺のことは明星って呼んだってください」
「ちょっと、明星、急に詰めすぎ」
「ええ〜?恋さんも言うてたやん」
「距離の問題だし。はぁ……、困らせてごめん。でも、僕も真央でいいよ、澄香。ゆらはどうする?」
「……べつに、なんでも」
「そう、なら、ゆらとか揺で呼んでやって」
前に出た俺に合わせて、一歩下がる姿に『なるほど』と思う。警戒心が強い、パーソナルスペースが広い、単純に驚いた。いくつかの可能性は考えられるけれど、下がったことで縮まる衣都さんとの距離を気にしていない様子から『男のひとが苦手なんやろか』と、なんとなくあたりをつける。
笑みを浮かべたまま、じぃと見つめていると水面に一雫の揺らぎ。明確に嫌悪感が浮かんでいる瞳を見つめていると、後頭部に軽い衝撃が走る。なんやの、と振り返るとまおちの冷たい視線が刺さった。前門の嫌悪に、後門の蔑み。え、つらすぎん?
「……恋さん、真央さん、揺さん。それから、樋宮さんですね。所属も異なりますし、普段は別のところにいますので、なかなか顔を合わせる機会もありませんが。本部には顔を出すこともあるので、その際にはよろしくお願いします」
「あれ〜、なんで俺だけ名字なん?明星でええのに」
「持ち帰って検討いたします」
「……うん、明星ってうざいよね」
「ゆら?え、うそやん、そこで同調するん?澄香さんには言われてへんのに」
「顔に出てたから」
「さっきのは自業自得、反省しな」
「なんもしてへんのになあ」
渋々と元の位置に下がって、澄香さんを眺める。特務部というわりに、鍛えられているというか、筋肉はそこまでないように見えるのが不思議で首を傾げる。
「そういえば、あれなん?実はめっちゃ強いとか、そういうタイプなん?特務部になるって」
「あ、いえ、澄香さんはサポート専門の方で」
「へぇ、さすがに実働ではないか。どんなことができるの?」
「本当に、いろいろ、と言いますか……」
なにから言えば良いのか、と言い淀む衣都さんを見かねたのか、少し考えるような表情を見せてから澄香さんが口を開く。
「依頼先での襲撃ポイントの予測、移動ルートの割り出し、薬品の特定、その他諸々の分析とサポートが可能です」
「映画みたい」
「ドラマでもありそう」
「特務部の実態、なぞが増えたかもしれへんなあ」
言えてる、と声を揃えた交際部をみて笑ったかみやんが「澄香さんは本当にすごいよ!」と言ったところで、残念ながら時間になる。迫る開店時間を見た衣都さんが締め括ったことで、慌ただしくも解散となった。
カフェから去る背中を眺めて、先ほど向けられた嫌悪感を思い返す。自然と緩んだ表情を見て、隣にいたはずのゆらが、まおちの向こうに消えた。そろそろ泣くで、いや泣かへんけど。
静かな水面を暴いたら、ハリネズミのような威嚇の奥にはなにが見えるんやろ。ああいうひとが堕ちたときが堪らんのやけどなあ、堕ちてくれへんかな。そう思いながら窓ガラスに視線を向けると、酷く楽しそうな俺が映っていた。
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有刺鉄線の赤い糸