図書室にいるところを見つけて、向かい側の席に座る。頬杖をついて見つめながら、音に乗せることなくこの子の名前を呼ぶ。当然気付くはずもなくて、真剣な表情で書物に没頭している。昔から、集中すると自分の世界に没頭する子だった。
少ない瞬きで文字を追って、文章の意味を咀嚼するように時折唇が動く。紙を捲る指先は迷いがない。残っている頁はそれほど多くはないように見える。
図書室の席にまだ余裕があるのなら、このまま待っていようと思い立って辺りを見渡すと、図書委員会の当番をしているらしい雷蔵と目が合った。仕方がないなあ、とばかりの表情に笑みを返して、口許で人差し指を立てる。雷蔵は音もなく笑って、当番の仕事に戻っていった。
そうして視線を戻すと、細い指が背表紙をなぞっていた。読み終わって、静かに内容を反芻しているのかな。静かな眼差しが珍しくて、でも頑張っている姿が可愛くて、頬についていた手のひらを動かして口許を隠した。見ているだけなのに、飽きないなあ。ふ、と息を吐く。
暫くすると書物の内容を飲み込めたのか、海が机から、あるいは書物からようやく顔を上げる。大きな瞳に俺を映した途端、まろい頬が薄く染まって口角がきゅ、と上がる。直向きな好意が眩くて、元々色がついている世界なのに、更に色付いたような心地になる。
「お疲れ」
「いつからいたの?」
「んー?ついさっき、かな」
「声、かけてくれたら良かったのに」
「もうすぐ終わりそうだったから、それに勿体ないし」
「勿体ない?」
「ひみつ」
内緒話をするよりも潜められた声なのに、聞き取ることは簡単で。俺がこの子の声を、聞き逃すはずもなくて。――それでも、やっぱり。くふくふと笑いながら、さっきまで頁を捲っていた指先を落ち着かなく動かしている海に片手を差し出す。遠慮がちに重ねられた手をしっかりと握って席を立った。
「それ、棚に戻す?」
「うん、こっちの棚だよ」
海が指した方向に足を向けて、本棚に書物を戻してからふたりで図書室を出る。通りすがった雷蔵に手を振ってみたら、小さく振り返してくれた。優しい。
図書室から「出ても良い?」も「まだいたい?」も、なにも聞いていないのに手を引かれている海は、ただ嬉しそうにしている。その顔を見ていると頭は悪くないのに、どうしてかなあと思う。思うけれど、口にはしない。
ふたりになりたくて、ちゃんと声を聞きたくて図書室から出たけれど、行き先は決まっていない。小さな手を引きながら適当に足を動かしているのに、それでも海はなにも聞かない。あのね、と控えめに、それでいて楽しそうに今日の出来事を教えてくれる。それに相槌を打ちながら、暖かいから森にでも行こうかな、と外に出ると海の言葉が「あ、」と止まった。
くい、と手を引かれて足を止める。隣を見下ろすと、海は繋いでいないほうの手をちいさく振っていた。視線の先には保健委員会の下級生たちと歩く、神喰がいる。
神喰の腕には薬草を乗せた籠がある。両腕で支えているから手は振れないだろうなあと眺めていると、俺相手にはあまり変わることのない表情が綻んで見えた。日陰でどうにか咲いた蕾が、ゆっくりと開いたような笑みを零して、菖蒲の髪を揺らして背を向ける。
海や鉢屋を通して関わっている神喰がなにを抱えて、なにを考えているかは知らないけどさ。わかるよ、海から向けられる感情は、俺らみたいな人間には少し眩しいよなあ。
「そういえば保健委員だっけ」
「そうだよ。あのね、手当てするときにこっそりおまじないしてくれるの」
「え、子供扱いされてる?」
「違うよ!もう無理な鍛錬はしないでね、って」
「ふーん?無理な鍛錬したんだ?」
「あ、ちが、ちがうの、えっと……ちょっと、頑張ったかな」
しどろもどろに伝える海に、怒ってないよと笑う。怒ってなんか、いない。ただ心配で、閉じ込めてしまいたくなるだけで。だって本当は、この手は武器なんて持つ必要がなかった。安全な家にいて、美味しいものを作って待っていてほしかった。帰った時には抱き締めて、柔い匂いに包まれて、守られていてほしかった。
「そっか、じゃあ俺もおまじないしようかな」
「え?」
でも、それは叶わないから。俺に甘いこの子が、それだけはいやだと言った日に、俺の1番の願いが叶わないことを知った。俺が与えるすべてを受けとってくれる海が、それだけはと拒んで、泣いた。悪いところなんて何ひとつないのに、俺の願いが叶えられないと苦しそうに泣いていた。
それなら、俺が変わるしかない。俺の願望ばかりを詰めた欲を飲み込んで、心の内でいやだと喚く自分を殺して、この世で一等大事な女の子の我儘ひとつ叶えられないでどうすると腹を括った。我儘と呼ぶには、あまりにささやかな願いだったけれど。
繋いでいた手を持ち上げて、桜貝みたいに小さな爪が揃う指先に口付ける。少しだけ、薬草の匂いがした。「み」が裏返ったような、「ぴ」だか「び」だか分からない音を発して硬直する海を覗き込む。
「約束、俺の大事な子に優しくできる?」
「す、する……!」
「破ったら、俺が悲しくなるからね」
真っ赤な顔をして何度も頷く海の首が取れそうだったから、少しだけ笑って顔を離す。丸い瞳に映る俺は、やっぱり優しくない顔をしていたなあと笑みを消して、俯く海の手を引いた。素直なこの子は、鍛錬のたびに思い出してしばらく無理はしないはずだから、休息も兼ねて今日は木陰で昼寝でもしようかなあ。
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