いくら地上と地下を隔てられてるとはいっても、下層区のなかにも高低差はある。私たちがアジトにしている屋敷は下層区のなかでは上のほうに建っているから、階段とも坂ともいえない不恰好な道を降っていく。
下層区は下にいくほど治安が悪くなって、常識や人権なんてものはなくなっていく。どこにも属せないはみ出し者が過ごしていたり、老いたひとや力のない子供たちが捨てられたりしている、掃き溜めのような場所。悲しいけれど、すべてを助けるには力も資源も、なにもかもが足りなくてシナ先生もなかなか手を出せずにいる。
明日の取引場所は、中程に位置する瓦礫のような建物。下層区には、すでに崩れた建物が多くある。特に中部より下は抗争に巻き込まれることも多くて、同じ場所に再建するよりも別に建てたほうが楽だからと次々に増えては、壊されていく。
シナ先生の屋敷は下層区ができた最初期に造られたもので、あの頃はまだ技術者も資源も、上層区からの援助も続いていたらしい。今ではもう随分と見ていないけれど、そんな時代もあったのだと仰っていた。
端末に送られたマップと照らし合わせながら、次々と建てられる影響で広かったり狭かったり、ひどく入り組んでいる道を歩いていく。当日はGPSと麻子ちゃんのナビゲートがあるとはいえ、予想外に崩れている場所があるかもしれないから。
「うーん……大丈夫そう、かなぁ」
一通り確認が終わる頃には随分と時間が経っていて、地上にある『太陽』の代わりをする街頭は夕方用の灯りになっていた。街灯は下層区の至るところに設置されていて、『空』が見えない下層区にとっては大切な光源でもあり、時間の流れを把握するためにも必要なものだった。街灯の灯りの強さで、私たちはいまが朝か夜かを判断している。
「大変、そろそろ帰らないと怒られちゃう……!」
歩いてきた道を辿るように、足音を殺したまま早足で駆けていく。右に曲がって、左に曲がって、もう一度左に曲がって何度目かの瓦礫を越えた時、ドンッと額に硬いものがぶつかった。蹈鞴を踏む私の腕を、なにかが掴む。――ひとの手だ。
足音を消すことは戦う術を教わった頃から癖になっていて、私が足音に気づかなかったということは、相手もきっと同じで。反射的にホルダーへと伸ばした手がナイフの柄を掴む。けれど、その手はグローブに包まれた大きな手に押さえられて、引き抜くことは叶わない。
「待ってまって、争うつもりはないから!」
焦った様子の、聞き慣れない低い声。暗がりではあるけれど、街灯のおかげで相手のことは視認できる。私と同じように黒を基調とした服装の、特徴的な髪質の男のひと。年齢は私と同じくらいかもしれない。服の上からでも十分に鍛えられていることが分かる。
「手を離すから自分で立ってね。あと、攻撃もしないでくれるとありがたいんだけど、OK?」
「……う、うん」
「よし、じゃあ離すからね」
ぱ、と両手を離した彼は一歩引いて、そのまま手のひらが見えるように顔の横へと手を上げる。攻撃の意思はないと言いたいらしい。困ったなぁ。指先でパーカーの裾を弄りながら、小さく頭を下げる。
「急いでいて、ごめんなさい」
「いや、こちらこそ。怪我は?」
「貴方が助けてくれたから、大丈夫です。えっと、ありがとう」
「どうしたしまして」
そろりと視線を上げると、丸みを帯びた目元がくしゃりと細くなっていて、なんだか落ちつかない。ほとんど屋敷にいるか、単独行動をしている私は異性と話したことが片手で数えられるくらいしかなくて、触れられたことなんて記憶がある限りでは初めてかもしれない。じわ、と熱くなる頬を隠すように俯く。
「その、私……っい、いそいでるから、失礼します!」
身を小さくするように、両手を胸の前で抱く。未だ手を上げている彼の隣を駆け抜けようとして、足が止まる。顔の前に彼の手が下ろされたかと思えば、そのまま腰を抱かれて向き合うように立たされる。抱き締められているわけではないけれど、それに近い姿勢に顔が熱くなる。
「ぁ、あの、あの……っ!?」
「ふーん?」
「いそ、いでまして!はなして、くださ、」
「俺ね、勘右衛門っていうんだけど、きみのお名前は?」
ぽかんと口を開ける。名前を聞くためだけに、こんな方法をとったというの。見上げた彼が笑みを浮かべて「真っ赤、」と溢したことが分かる。首から胸元まで熱が広がる感覚に、咄嗟に「守秘義務です!」と叫びながら顎に向けて掌底を叩き込んだ私は悪くないと思う。
呻きながら崩れ落ちる彼を置いて、今度こそ駆けていく。男のひとって、なにを考えているかわからなくて、こわい。夜の空気が火照る頬を冷やす。屋敷に着くころには、元に戻っているといいな。
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5.素晴らしい縁の贈り物