夜の闇に紛れながら木々の間を駆け、時には枝へと飛び移る。依頼されていた密書は手に入れた。残るは追手を撒くだけだと、辺りの気配を探ってから太い枝へと飛び移った利吉は、幹に背中を預けながらずるずると腰を下ろした。
手裏剣が掠めた腕も、蹴り飛ばされた腹も痛い。けれども、決して致命傷ではなかった。いま利吉の体を蝕んでいるのは、手裏剣に塗られていた毒に違いない。執拗な追手の所為で毒の対処が遅れている。
口許を隠していた布に指をかけ、顎下までずらす。しっとりと水分を含んで素肌に張り付いていた布の下から、赤く濡れた唇が晒される。手の甲で拭うと、唇から頬にかけて赤い線が伸びた。呼吸をするたびに喉へ絡む鉄の味に顔を顰めながら、懐へと手を伸ばした利吉はその指が震えていることに気づいて苦笑する。
「ひさしぶりの、失態だな……」
「まったくだね」
音もなく目前へと降り立つ人影に、気配すらなかったと身構える。けれども、その声が利吉の聞き慣れたものであると気づくと、安堵から細く息を吐いた。本当に、神出鬼没なひとだ。
毒の影響で少しばかり滲んでいるけれど、見間違うはずもない。生花よりは造花のような、造りものめいた美しさ。指先の動きひとつすら演じることも容易いのに、稀に見せる素の感情が堪らず利吉の心を占めているひと。
「何故、ここに?」
「おや、君ともあろう者が気づいていなかったのかい。私も同じ城に潜入していたんだよ、女中としてね」
「……それは、惜しいことを」
辰弥が男の姿であっても、女の姿であっても、利吉にとっては些細なことだけれど、揺らぐことのない柘榴の瞳に映ることは尊いとさえ思えた。忍者としてあらゆる教育を受け、頭から指先はもちろん紡ぐ言葉すら理性で管理し、意のままに演じる辰弥も、その瞳に映すものだけは変わらない。
それならば、その瞳にいつだって映っていたいと利吉は思う。そして叶うならば、自らもその瞳に映していたいと。それがなかなか、難しいのだけれど。
小さく咳込むと、喉奥から溢れた血が口端を濡らす。漏れた息が熱い。懐へと伸ばしていた利吉の手は、いつしか木の枝から垂れていた。枯れた呼吸音が響く。
「仕方のない子だね、君は」
「飲ませて、くれないんですか」
「元気になったら考えてあげるよ」
細い指先が唇を抉じ開け、歯に触れて小さく顎を開かせる。褥で散々に辰弥を嬲る厚い舌の上に、解毒剤を押しつけた。揶揄混じりの、甘えるような利吉の目に柔く笑いながら竹筒を押し付ける。
隙あらば体から籠絡しようとする利吉の、若さゆえの熱を完全に拒むことができないと知っての戯れなのか、それとも辰弥の意思は関係ないのか分からないけれど。解毒剤を飲むところを見届けて、毒の所為で熱い利吉の瞼を手のひらで覆う。
「良い子は寝る時間だよ」
「……解毒剤だけでは、なかったんですか」
「さて、どうだろうね。……ほら、おやすみ」
眠気に抗うように噛んでいた唇から、力が抜けたことを確認して手を離す。解毒剤は、解毒剤。解熱作用はあったとしても、副作用があったとしても、即効性の睡眠剤ではない。
穏やかな寝息を立てる利吉を見下ろすように立ち上がった辰弥は、すっと笑顔を消す。日に日に、夜を重ねるたびに、自らの傍で眠りやすくなっている男の変化に辰弥は気づいていた。
忍者として生きるにはあまりに致命的な、けれども心を許した男として生きるにはあまりに、愛しい変化。辰弥とて他人事と切り捨て難いそれに、利吉はいつ気づくのだろうと思う。いっそのこと気づかなければ、と考えて頭を振る。
「ほんとうに、手のかかる男だね、利吉君は」
とん、と枝を蹴る。地面に降り立った辰弥に刺さる殺気に、指先で寸鉄を回す。口吸いのひとつ、ふたつで帳消しになると思ったら大間違いだ。精々生きてもらわねばと、辰弥は布の下で笑みを深めた。
表紙 /
top
不都合な愛を自覚して