好きなことは、たくさんある。

頬が蕩けるような甘いものを作ること。柔らかな陽射しの中でお昼寝をすること。図書室の書物を読んで、新しい知識を得ること。他にも、いろいろ。

なにがそれぞれのきっかけかなんて、もう覚えてもいないけれど原点だけは揺るぎなく、勘ちゃんだってわかる。勘ちゃんがよく食べるから甘いものを作ることが好きで、おひさまと勘ちゃんの温もりに包まれてお昼寝をする時間が幸せで、勘ちゃんの役に立ちたいから学ぶことも好き。出会ってから約10年、そうして生きてきた。

だけど、この先もずっと勘ちゃんの傍にいたいのなら、変わらなくてはいけないことも分かっていた。なにかに縋って、誰かに依存して生きていられるほど、忍びの世界は優しくない。

私がいまも学園にいられるのは私がまだくのいちのたまごで、学んでいる最中だから。幼い頃からずっと手を引いてくれていた勘ちゃんが、甘えることを許してくれているからに他ならない。

本来であればこんな風に甘ったれた、なんの取り柄もない凡庸な女が、この歳まで学園にいられるはずがない。十分に学ばせていただいた作法を武器に、村へと戻って家族を支えていたほうが良い。実際に、そう薦められたこともある。けれど、学園を辞めてどうするのだろう。

私だけ学園を辞めて、村へと戻って、ふつうの人生を生きる。息を潜めて、名前や顔を待って、性格すら欺いて、それから武器を握ることのない人生を想像する。周りに後押しされて同じ村の、あるいは別の村の誰かと結ばれる未来があるかもしれない。柔らかないのちを抱いて、笑う未来があるかもしれない。凡庸な女らしい、穏やかでふつうの人生。

けれど、そのどれもに勘ちゃんはいない。考えて、悩んで、勘ちゃんのいない人生を何度も、何度も思い浮かべて、不意に死にたくなった。

ぐわんと頭が揺れた拍子に、知らず知らずのうちに息を止めていたことがわかる。短く息を吸って、吐いて、胸元の布地を握り締める。全身の感覚がおかしくて、立っているのか膝をついているのかもわからない。ぐらりぐらりと視界が揺れて、左肩に鈍い痛みが広がった。目の前で閉ざされたままの障子の向きがおかしくて、倒れたのかな、なんてぼんやりと思う。

ぐっと鎖骨のあたりが苦しくなって、喉の奥から迫り上がってきたものを抑えるように、片手で口許を覆い塞ぐ。苦しくて滲んだ涙が、肌を伝って床へと垂れる。日を開けていることすらしんどくて、ぎゅっと瞼を閉じれば、私がいた。

眠っている小さな子供のように背中を曲げて、冷たい床の上で丸くなっている自分自身を見下ろす。衝動的に懐へと手を伸ばして、手に馴染む鉄肩を掴むと、そのまま無防備な体に向けて振り下ろした。ただ臓器の詰まっているだけの薄っぺらい体が、そこから伸びているだけの腕や脚が、脆くひしゃげて骨が見えるまで何度も殴った。

時折間違えて拳が肉へと触れる。溢れる血液が手を汚して、皮膚から飛び出た骨片が指を裂いて、それでも構わずに腕を振り下ろす。右手が疲れたら左手に持ち替えて、左手が疲れたら右手に戻して、時間をかけて『私』を壊していった。

もう何度の殴打かもわからない時、疲れた手から鉄扇が抜ける。ゴンッとどこかにぶつかって、床に落ちた音がする。赤い手のひらで額を拭って、荒い呼吸を整える。たまに反射で跳ねていた体がぴくりとも動かなくなっていることに気づいて、ぺたりと床に尻もちをついた。

口内に溜まっていたものを購下して、ふっと瞼を開く。口許を塞いでいた手の甲で、顎を伝う唾液を拭った。震える両腕を床について体を起こす。

当然、どこも壊れていないし、血も出ていない。ただ、なにもしたくないほどの、ひどい疲労感に包まれている。

私を変えることはなかなか難しくて、けれど死ぬほどのことではない。頑張れば、勘ちゃんの傍にいられる人生を選ぶことだってできる。それがわかったから、私ひとりの死体なんて安いものだなぁ、なんてばかみたいな感想が浮かんで小さく笑った。




表紙 / top


砕け散った亡骸を抱く