昨夜のうちに学園長から『おつかい』を聞いていた海は、陽が登り始めた頃には身支度を終えて正門の前にいた。いつも着ている桃色の装束ではなく、淡い色をした着物の袖を弄りながら俯いていると、その背に声がかかる。

途端にぱっと表情が明るくなるものだから、欠伸をしながら隣に立っていた小松田は入門票で顔を隠して、つい頬を緩ませる。くのたまのみんなは怖いところもあるけれど、やっぱり女の子たちは可愛いなあ、なんて思いながら。

「ごめんね、海ちゃん。お待たせしちゃって」
「いえいえ、待ってないですよ。おはようございます!」
「ええ、おはよう。いい天気になって良かったわ、寒くはない?」
「はい、大丈夫ですよ。あずみ先輩こそ、大丈夫ですか?」
「平気よ。ふふ、ありがとうね」

よかった、と息を吐きながら二人分の外出届けを小松田へと渡したあずみは、同じ委員会ということもあり殊更気にかけている後輩を連れて学園を出る。その後ろでは、変わらず眠気に耐えている小松田が緩く手を振っていた。



今回のおつかいは突然決まったもので、昨夜、夕餉を終えたばかりのふたりを呼び出したのは、くのいち教室で教鞭を振るう山本シナだった。その美しい顔に『困ったわ』と浮かべながら学園長の元へ連れられて、ふたりはおつかいの内容を聞くことになった。

なんでも、日頃から好意で実家の薬草を売りに学園の近くまで足を運んでくださっている方が、行方知らずになっているのだとか。体の弱い方だとは聞いているけれど、その足で薬草を運んでいるところを海も見たことがあった。

出屋敷家の『たけこさん』は、その日は体の調子も良く、少し遠いところまで出てみたいと月塚村まで薬草を売りに出たと、相談に来られた方は言っていたそうだ。

月塚村は、たけこの住まう村からは然程遠くはない。その日のうちに帰ってくるだろうと、念のために発作が出たときの薬を持たせて見送った。それが一日経っても帰ってこないものだから、体調を崩しているのかもしれない、けれども少し特殊な立地故に運べるほどの力もないと判断し、たけこの幼馴染でもある5年ろ組の竹谷八左ヱ門を頼って学園を訪れたらしい。

学園でも薬草は育てているとはいえ、数や場所に限りはある。薬草を生業にしているだけあって、時折力をお借りしている方からの依頼とあっては無碍にはできない。けれども、当の竹谷は学園を留守にしていたものだから、たまたま手が空いていたあずみと海に声が掛かった。

最近、忍術学園に在籍する上級生は進級に向けての試験で学園を留守にすることが多く、あと一日、二日も待てば他にもひとはいたのだけれど。女ふたりで、とは言ってもふたりはくのいち教室の上級生。男と比べて純粋な力は足りずとも、知恵や経験は十分にあった。

「少し、急ぎましょうか」
「はい!」

いつもと変わらない穏やかな眼差しにしっかりと頷き返して、山道を辿っていく。海も訪れたことはない月塚村は、山と山の間に位置する小さな集落だと聞いている。薬を売る際も通貨はなく、山や村で採れたものと物々交換を行なっているそうだ。 

たけこを心配する同村の者が夜になって探しに行けなかったのも、夜は山間部で気温の低下が激しく深い霧が立ち込めるからで、月塚村の者でなければまっすぐに歩くことも難しいらしい。それは朝でも変わらない。霧が晴れた頃に着くようにと考えられたのが、いまの時間帯での出発だった。

本来であれば幾分か整えられた道を歩くところを、木々や岩を使って経路を短縮する。以前、よく忍術学園に顔を出しているプロの忍者でもある辰弥とともに3人で任務をこなした時の雰囲気とは違い、互いに気を配りながらも黙々と脚を動かし続けた。

保健委員から預かった予備の薬や、それ以外のものを落とさないように気をつけて、ようやく目的地についた頃にはそれなりに疲れていたけれど、疲労とは異なる理由で海はぽかんと口を開けてしまった。いけない、と慌てて口を閉じる。

たけこと同村の者が言っていた通り、山間の入り口に看板が立っている。そこを目的地として動いていたから、看板を見つけたところまでは合っていた。けれども、ふたりが脚を止めた理由は看板を見つけたからではない。

「……あずみ先輩、これって」
「霧、ね」
「で、でも気温だって、もう」
「……海ちゃん」

どこか青白い顔をしたあずみが、傍に立つ海の手をそっと握る。その手がぞっとするほどに冷え切っていることに気づいた途端、どうして今まで気づかなかったのかが不思議なほど、辺りの気温が冷えていることに気がついた。

視線を向けた先、看板の向こうは深い霧が立ち込めている。ぐ、と喉を鳴らす。その時、霧の向こうから微かに鐘の音が聞こえてきた。その音はまるで、どこか遠いところから、過去から響いてきているようだった。

「鐘、ですね」
「学園だったらいつもへむへむが鳴らしているけれど、なんだか……」

きゅ、と唇を引き結んだあずみの言いかけた言葉を、海は分かったような気がした。未だ微かに鳴り続ける鐘の音はどこか不規則で、陰鬱な響きがあった。思わずあずみの手を握り返して、もう一度看板に目を向ける。

古びた看板は刻まれた文字が少し欠けていたけれど、しっかりと『月塚村』と記されていた。その先に続く道に目を凝らす。苔むした石が点々と並んでおり、その石が所々黒ずんでいるようにも見える。

「ここを、進むんですか?」
「……少し、厳しいかもしれないわ」

昨夜のうちにシナからは、深い霧のなかを進む危険性を教えられている。それ以前に、なんとも言えない不気味さが海の声を震わせた。預かっている薬が、なんだか重たく感じる。

海は一方的にだけれど、竹谷を慕うたけこの姿を知っていた。竹谷以外に興味はないとばかりに「豆腐の」だったり、「うどんの」だったり、ぽやんと惚けた様子を見せるのに竹谷を前にした途端に生き生きとする可愛い女の子だと、知っていた。

だから、もしこの先にたけこがいるのなら助けたいと思うほどには、同じようにただひとりを想って恋をするたけこのことを見ていた。人見知りだから、声をかけることはできなかったけれど。

「……あずみ先輩、私、まだ名前を覚えてもらえてないんです」
「え?」
「たけこさんったら、ふふ、勘ちゃんのことをうどんによく似たひとよね、なんて言って。久々知くんのことは豆腐でしょう?私は、なんだかふわふわした子、なんて勘ちゃんに言っていたんですよ」

柔い手触りの髪を摘んで、くすくすと笑う。いつも、いつだって尾浜の後ろに隠れている海はひとよりも臆病で、だから不恰好に震えていたけれど。5年間、くのいち教室にいた事実は変わらない。

「一本道、って言ってましたよね。だったら私、行きたいです」

看板の奥を指差して、あずみを見る海の瞳はゆらりと揺れて。けれども諦めない、強い意思を含んでいた。下級生の頃からよく知っている後輩の言葉に、あずみは片手で口許を押さえる。そうでもしないと、なんだか堪らない気持ちになった。

「……そうね、行きましょう。足元は見えるもの、大丈夫よ。まっすぐに進んで、村に着いたらすぐに出屋敷さんを探しましょう。具合が心配だものね」

もう一度だけ、互いに力を込めた手をそっと離す。顔色は変わらず青白いままだったけれど、互いに指摘はしなかった。苔に足を取られないようにしっかりと踏み出すと、ふたりは看板の向こうに続く道を辿って、霧の中へと姿を消した。




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