月塚村の看板を越え、整ってはいるけれど狭い道を縦に並んで歩く。少しでも遅れると前を歩くあずみの背すら見えなくなってしまいそうなほど、歩みを進めるごとに霧は濃くなり、気温も下がってくる。

その中で、再び鐘の音が響き渡った。先ほどよりも大きな鐘の音に、月塚村へ近づいていることが分かって小さく息を吐く。

「近づいてますね」
「そうね。……でも、何かがおかしいと思わない?」

あずみの硬い声に、どきりと心臓が跳ねる。たけこが気になるとはいえ、霧のなかを進むことは正しかったのか、海はずっと気になっていた。それは海が小心者で、自信がないからではない。あずみの言う通り『何かがおかしい』と、思わずにはいられないからだ。

けれどもそれは、ただの勘のようなものでしかなく、海はなにも返すことができずにまた一歩前へと踏み出した。――その時、ふと、霧のなかにひとつの影が現れた。人影のようにも見えるけれど、どこか不確かで、輪郭がはっきりとしない。

『止まって』

あずみから矢羽音がとぶ。万が一のことを考えて、片手をいつでも懐に伸ばせるようにと構えながら足を止める。

ふたりが足を止めると、その影はゆっくりと近づいてきた。とても静かに、なにも言わずにこちらへと迫るその姿に、ふたりの心臓は一斉に鼓動を早めた。くのたまとして動いている時とは異なる、得体も知れない緊張感に包まれる。

足音もなく目の前に現れた人物は、顔色が青白く、どこか陰鬱とした雰囲気を纏っていた。落ち窪んだ目許からふたりを見る目が、氷のような冷たさを持っている。そうして、動くことができずにいるふたりに向けてゆっくりと口を開いた。

「――来るべきではなかった」

その声は深く、冷たく響いて、体の奥底から凍えるような心地がした。カチ、カチという音が小さく聞こえて、それが歯のぶつかる音だと気づいたとき、海は自分が恐怖を感じていると気づいた。じり、と片足を下げる。

途端、今までとは比べようもないほどに大きな鐘の音が響き渡った。まるで音の爆弾のように霧の奥から聞こえてくる鐘の音に、頭が軋むように痛む。まっすぐに立っていられないほどの轟音に思わず膝をついた海は、ぐらりと揺れるあずみの奥から人影がふっと消えたことに気づいて、全身がゾッと粟立った。

「っ、あずみ先輩……!」

説明のできない何かが、起こっている。その背に海を庇っていたあずみが倒れ、地面に頭がぶつかる前に片腕を伸ばして庇う。海よりも前に立ち、謎の人物と対峙していたあずみの顔は先ほどよりもずっと青白く、びっしょりと汗をかいていた。ぐっ、と唇を噛む。

あずみが倒れたことで、頭を締め付けるような鐘の音が海にも直接降りかかる。今にも気絶しそうなほどの眩暈に、途切れそうな思考を繋ぎ止めながら、震える手を懐へと伸ばす。取り出した小さな笛を咥えると、海は最後の力を振り絞るように思いきり吹いた。

音が鳴っているか、届いているかは分からなかった。それくらい霧のなかで鳴り続ける鐘の音は大きく、重たく響き渡っていた。ぐわんと、酷い眩暈の波が襲う。海の口許からぽろ、と笛が落ちた。

これ以上は、耐えられそうにない。次第に暗くなっていく視界のなかで、ふたりへと近づいてくる人影を見たような気がしたけれど、それを確かめる前に海の体は冷たい地面に伏していた。



「ごめんくださぁい」

扉をこん、と叩く音がしてから聞こえた声に小松田は首を傾げる。けれど、なにを疑問に思ったのかを考える前には入門票を手に忍術学園の門を開けていた。その声は何度か、聞いたことがあったから。

小松田が出入り口を開くと、そこには嫋やかに微笑む少女がひとり立っていた。無意識に想像していた通りの人物が立っていて、小松田はぱかりと口を開く。忍術学園を訪れた少女、――たけこは、困った様子で首を傾げる。

「あ、あのぉ……?」
「ぶ、」
「ぶ?」
「無事だったんですか〜!?」
「はい……?」

今度はたけこが、ぽかんと口を開く番だった。まるで幽霊か何かを見たような反応をされて、無反応でいられるほど自分のことに無関心ではない。忍術学園には大好きな幼馴染がいるのだから『歩いている間におかしな格好にでもなったかしら、それなら出直したいわ』と、背中を向けようとするたけこの腕を小松田が掴んだ。

どこか動転した様子で、入門票をたけこに押し付けた小松田は「そこで待っていてくださいね!」と嵐のように走り去る。時折自らの足に躓きながらも小さくなっていく姿を見送ったたけこは不思議そうにしながら、それでも入門票にそっと名前を書いた。

「あら、汚れているわ」

たけこが名前を書いた、そのひとつ上の欄がやけに滲んでいることに気づいて首を傾げる。書き直しているようには見えないけれど、幼馴染からドジが多い事務員の話を聞いていたたけこは『こういうことも、きっとあるのね』と思い、それ以上気に留めることはなかった。

たけこにとっては幼馴染以外のことを気に留める必要性が、いかなるときも感じられない。小松田が驚いていたことも、入門票が汚れていたことも、たけこにとっては些事でしかなかった。

「それにしても、ハチがいるなら顔を見たいと思っただけなのに、どうすれば……?」

気持ち良く広がる晴れ空をぼんやりと眺めながら呟くたけこの前を、鮮やかな緋色が過ぎる。驚いて地面へと落とした入門票が、カランと音を立てた。一瞬の間に現れた、黒い装束に赤い襟巻きをした美女の姿に、たけこはぱちりと瞬きをする。

「驚かせて、ごめんなさいね。出屋敷たけこさんで、あっているかしら」
「え、ええ、そうですけれど。あ、そう、ちょうどよかった、あの……ハチは、」
「うちのこたちには、会っていないのね?」
「はい?」

幼馴染がいるかどうかを尋ねたいだけなのに、何度も遮られたたけこの頬が引き攣る。けれども、目の前にいる美女は状況的にどう考えても忍術学園の関係者だったので、無碍にするのも良くはないかと思い直した。良き妻になるためには、時には忍耐も必要なのである。

「ごめんなさいね、少しだけ教えてほしいことがあるの。貴女、昨日は月塚村に薬を売りに出たのよね?」
「……いえ?昨日はすぐそこの町で、移動のために体を休めていました。今日、村に帰る予定で、その途中に学園へ寄ったんです。ハチに会いたくて」
「……そう、ありがとう。月塚村には、貴女は行ったことがあるのかしら」

続く質問に『おかしなことを聞くのね』と思いながら片頬に手を添えたたけこは、首を傾げながらそっと口を開いた。

「その村は、確かに近場にありましたけれど、わたしが生まれる前には土砂崩れに巻き込まれてなくなったと聞いています。なので、わたしが訪れたことはないですね」

そう応えたたけこに、美女――シナは小さく息を飲み、それから綺麗に感情を隠して微笑んだ。
朝の段階で、くのたまの生徒を見送った小松田からは入門票に昨日は書かれていた名前が、濡らしてもいないのに滲んで消えていることを聞いていた。小松田は確かに失敗の多い事務員だけれど、こと入門票に関しては取り扱いが繊細な男だった。

それに加えて、つい先ほど小松田に気取られることなく、珍しく焦った様子で学園長室を訪れた人物がいた。くのいち教室でたまに特別講座を開くこともある忍者、辰弥は開口一番にシナが送り出した生徒の安否を確認した。

自分の把握していないところで、何かが起こっている。そう確信したシナはひとまず、ただ不思議そうにしているたけこに応えるべく、美しく紅を乗せた唇を開いた。

「教えてくださって、ありがとう。それからごめんなさいね、貴女の望むひとはもう数日、学園へは戻らないわ」
「そうですか……それなら、村へ帰ることにします。ハチによろしく、伝えてくださいね」
「ええ、よく伝えておくわ。貴女が親切に答えてくださったことを」

ここへ来てようやく得られた答えにがっかりしながらも、続く言葉にぱっと表情を明るくさせたたけこは、軽く会釈をしながら門を潜っていく。扉が閉じたところを見届けたシナは、すぐさま身を翻して学園長室へと向かう。

息を切らせた小松田が戻ったころには、入門票が地面に転がっているばかりで、正門には誰もいなかった。




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