初めてその声が心地良いと感じたのは、第二性が定まるうんと前のこと。
公園に集まってかくれんぼをしていた時、隠れ場所を探して立ち止まる私へと向けられた「おいで」の3文字。体がぽかぽかと温かくなって、一歩踏み出したときには私の第二性は決まっていたのかなぁ、なんて今では思う。
伸ばされた手をぎゅっと握って、隠れるために遊具の後ろまでいっしょに走る。楽しそうで、嬉しそうな横顔を見ていると心が満たされたことを覚えている。きっと、それが始まり。



この世界にはダイナミクスと呼ばれる、男女の性別とは異なる性が存在している。一定の年齢になると検査を受けることが義務付けられていて、大きく分けて3種類あるダイナミクスのうち、どれかひとつに診断される。
それぞれ細かい特性はあるけれど、共通しているのは相手を庇護し、支配したい性質がDom。相手へと信頼を委ね、庇護されたい性質がSub。それから、どちらの特徴ももたないNeutral。人口の大半がNeutralと診断され、DomやSubは全体の2割にも満たないほどに少ない。

ダイナミクスについての知識は小学校の授業で学ぶこともあるけれど、DomとSubの間で行われる「プレイ」のことを教わるのは中学校の授業で、プレイの延長線上にある行為を含めて専門の先生から教わることになる。中学で学ぶのは早いという声も一時期あがったようだけれど、インターネットが普及した時代に間違った知識を拾うより先に、きちんと学んだほうが良いと、国が決めたらしい。
その授業の後に行われた検査で第二性が分かることが多く、私もその時に知った。私の第二性はSubだと、そう記された診断書の内容を見て真っ先に『やっぱりそうなんだ』と納得して、それから少しだけほっとした。その頃には個性というには少し偏った、Subらしい特性が表れていたから。

Subはシンプルに例えるのであれば、Domに庇護されたい、支配されたいといった性質を持っている。その中でも私は相手に尽くしたい、すべてを委ねたい、甘やかしてほしい気持ちが強く、痛みを伴うようなハードなプレイには苦手意識があった。
反対にDomは、Subを庇護したい、支配したいといった性質が根底にあるけれど、私のように細かい特性はひとによって異なる。褒めてあげたい、守ってあげたい、世話をしたいというように、Domによって違っているみたい。
第二性のそうした欲求はプレイを行うことで満たされる。それぞれが支配したい、支配されたいとはいってもプレイのコントロール権はSubにある。Subにコントロール権を委ねられたDomだけが「コマンド」で命令することができ、コントロール権を委ねたDomからの命令をSubが受け入れることでプレイは成り立っている。

けれど、コマンドを使うことだけがプレイではない。多くのSubは褒められたいという欲求を抱えて生きている。コマンドに従えた時にはたくさん褒めて、スキンシップをとって、自分を肯定するような「リワード」を「ケア」として与えられることで、Subとしての欲求が満たされている。
信頼するDomにすべてを委ねて、命令に従い、褒めてもらう。Subを満たす方法は簡単ではないけれど、Domに比べると分かりやすい。
Domはただコマンドで命令するだけでは満たされない。形だけの支配で満たされることはなく、コマンドを受け入れてもらい、その相手からの信頼を得ることでしか満たされることがない。だから、Subから委ねられたコントロール権を大切にする。大切にしなければ、コントロール権を失うことになる。そうなればDomとしての欲求が満たされないと、分かっているから。

私が尽くしたい、甘やかされたい性質が強いように、Domにも様々な性質がある。私が苦手としている痛みを伴うプレイを好むSubやDomもいれば、Subであっても過度な庇護を嫌う者もいる。お互いの好みが一致していなければ、プレイはダイナミクスを満たすものではなく、ただの苦痛となる。
とても厄介なことに、私たちはプレイを断てば体調不良になる。長く不調が続けば衰弱し、死に至ることもある。もちろん、症状を抑えるための抑制剤なども存在はしているけれど、根本的な解決にはならない。信頼する相手と「パートナー」になり、お互いにダイナミクスをコントロールするためにプレイを行なっていくことが、安定して生きていくために大切だった。



私にとっての最大の幸運は、血の繋がる家族以外でいちばん信頼している相手がDomだったこと。
物心がついた頃からずっとそばにいる幼馴染は、私がSubだと診断された日に、同じようにDomだと診断された。診断書を受け取って、学校で学んだよりももっと詳しい講義を受けて、少しだけ大人になったような気がした帰り道。数年ぶりに繋いだ手は熱くて、汗ばんでいて、でも離したいとは思わなかった。それからずっと、いっしょにいる。パートナーには、なっていないけれど。

高校生になると勘ちゃんはバスケ部に、私は調理部に入った。調理部はバスケ部とは違って、週に1回あるかないかの活動だから、部活のない日、私は体育館の2階からずっと勘ちゃんを見ていた。
ドリブルをして、パスをして。体育館のなかを自由に駆ける勘ちゃんを目で追いかけていると、時折視線が重なって、柔く細められた瞳が『いいこ』と伝えてくる。勘ちゃんが部活の間、与えられているコマンドは「ここで待ってて(Stay)」と「俺を見て(Look)」の簡単で、基礎的なものを2つだけ。
部活が終わると「いっしょに帰ろう(Come)」と呼んでもらえるから、下に降りて手を繋いで、暗い道を並んで帰る。学校からお互いの家まではそこまで距離はないけれど、その間はずっとコマンドを守れたことを褒めてもらえる。それだけで甘えたがりで、褒められたがりの私は簡単に満たされる。

「今日もお疲れさま」
「ん、ありがとう。海も、疲れてない?ずっと待ってて、えらかったね」
「ふふ、ほんとう?」
「本当!ほら、上を見るたびに目が合わなかった?ちゃんと守れていいこだね」
「うん、……えへ、うれしい」

隙間なく繋いだ手を揺らすと、手の甲をやさしく撫でる指腹がくすぐったくて、絶えず頬が緩んでしまう。触れ合う体温から、降り注ぐ声や視線から、ケアをしてもらえていることが伝わって体がぽかぽかとする。簡単なコマンドだって、褒めてもらえたら嬉しい。
なんだか足元が浮ついているような気がして、腕にぺたりと頬を寄せて歩くけれど拒まれることはない。これだけ近付けば爽やかな制汗剤に混じって、汗のにおいがする。そっと見上げれば優しく細められた眼差しに、喉がきゅうと鳴った。今日も、しあわせ。

「もうすぐ、ついちゃうね」
「寂しい?」
「……えっと、ね」
「いいよ、言って」
「すこしだけ、さみしい。いっぱい、ほめてくれたから」
「ちゃんと言えたね、いいこ。じゃあ、家に着いたら鍵を閉めて、いつも通りに行動できる?ご飯食べて、お風呂入って、全部終わったら部屋に戻る。できそう?」
「うん、できるよ」
「えらいね。全部できたらご褒美あげるから、電話かけてきて。俺もそれまでに、寝られるように終わらせておくから」
「ねるまで、おはなしできる?」
「寝ても切らないよ、起きても繋がってるから大丈夫」
「ぅ、ん、ふふ、やった。ごほうびだね」

どれだけゆっくり歩いても、たった20分の帰り道。たくさんケアをしてもらって、ぽやぽやとした気持ちのまま家に入る。覚束ない手付きで鍵を閉めると、すぐにスマホがぽこんと音を立てる。別れたばかりの勘ちゃんから「またあとで」と届いているのを確認して、かわいい動物が尻尾を振っているスタンプを送った。ご褒美が待ってる。



私たちはパートナーではないけれど、日常的にコマンドを使っている。とは言っても、本格的なプレイをしたことはなくて、本当に簡単なコマンドばかり。
勘ちゃんはDomだけれど、あまり支配的な面は見られない。私に対してなにかを強いることもなければ、暴力を振るうこともなくて、なにでダイナミクスを満たしているのかと不思議になって聞いたことがある。
Domとしての勘ちゃんは、パートナーになるSubのことを全部把握して、管理していたいらしい。それからうんと褒めて、甘やかすのが好きなんだとも言っていた。それなら、私はだめなの?と言葉にはしなかったけれど、顔に出ていたのだと思う。宥めるように頭を撫でながら、いまは準備期間なんだって笑っていた。

「準備期間?」
「そう、準備期間。べつに海はさ、支配されたいとはそこまで思ってないよね」
「そうかなぁ」
「俺はそう思ってる、それより褒められたり、甘やかされるほうが好きじゃん?」
「それはね、そうかも」
「そうなんだよ。でも俺はさあ、ぜーんぶ知ってたいの。いま何してんのかな、どこにいるのかな、とか聞きたくない。すでに知ってる状態でいたいんだよね。わかる?」
「……うん」
「わかってるけど理解はしてないって顔だね」

ふ、と柔く息を吐いてから「例えばだけど、」と前置きをした勘ちゃんが具体的なことを教えてくれた。パートナーになった相手には常に位置情報を共有していてほしいこと、その日のスケジュールを細かく把握しておきたいこと、その上で行動ごとに報告してほしいこと、その他いろいろ。
ぽかんと口を開いた私の頬を包んで、額同士をくっつけた勘ちゃんの瞳がとろりと甘くなる。頬に触れる大きな手に、私の手を重ねてぎゅっと握る。頭の頂上から爪先に至るまで、重たくて甘いなにかが撃ち込まれたように動けなくなる。
くらくらと目眩がしそうだけれど、心地いい。絡み合う視線だけで私を象っていたものが溶けていって、作り替えられていくような錯覚に体が震える。

「俺に任せてくれる?」

内緒話をするように囁かれた声は、優しくてあたたかいのに、欠片ほど残っていた理性を壊していった。
私はこれから、さっき言っていたことが守れるように少しずつ、少しずつ躾けられるのだと思うと嬉しくてたまらない。多幸感に滲む視界は、瞬きすれば目許を濡らした。

「ちゃんとできたら、いっぱいほめてね」
「いいよ、褒めるのも好きだから」
「ぅ、ん……っできなくても、ほめてくれる?」
「頑張ってくれたら、たくさん褒めるよ」
「ぜんぶ、できるようになったら」

しぃ、と口許に触れる指先が言葉を遮る。ぐずぐずに溶けた目尻へと唇が柔く触れる。ちゃんと約束してくれないなんて、ずるい。ひどい。そう言いたいのに、顔を離した勘ちゃんがあまりに嬉しそうに笑うから、私も嬉しくなってきゅっと目を細めた。
私たちは、まだパートナーにはならない。恋人にだってなっていない。いますぐにだって、なってほしい気持ちがないと言えば嘘になる。Subだって分かる前からとくべつで、だいすきなひとだから。
それでも、たくさん頑張ったご褒美に私をあげることができて、勘ちゃんをもらえるなら、それ以上のご褒美なんてないと思う。
甘やかな思い出にえへ、と笑いながら布団に潜り込む。充電コードを繋いだスマホをタップして、無料通話ができるアプリから勘ちゃんへと発信する。3コールの後、耳許から聴こえた低い声にそっと目を閉じた。





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D/S書きたいとこだけ