音もなく学園長室へと現れたシナは、学園長と共に座っている辰弥の姿を認めて、その隣へと腰を下ろす。その表情は落ちついていたけれど、生徒を案じる気持ちが滲んでいた。
月塚村にいると思われていたたけこが学園を訪れたこと、昨日は町にいたことを伝え、今朝聞いた小松田からの話も報告したところで不自然なタイミングで――否、出来すぎたタイミングで現れた辰弥へと静かに目を向ける。

「……それで、辰弥さんは何故?」
「知らせが飛んできてね」
「知らせ?」
「いつかのお礼に、一度だけ使える笛を渡していてね。自分たちの力ではどうしようもない状況に陥ったときに吹くようにと、あの子に、……海に渡していて。ほら、あの子は少し危なっかしいから」
「……なるほど?それで、海さんに尾けていた鳥か何かが貴方のところへ、といった感じかしら」
「その通り、流石はシナ先生だね。海はあれでいて我慢強いから、余程のことがないと吹かないと思っていたけれど……」

ふ、と目を伏せた辰弥を横目に学園長へと向き直ったシナは「探しに出ても?」と問いかける。即座に返ってきた「否」に頭を抱えたくなるのを堪えながら、視線で問い返す。長年の経験から、嫌な予感が強くなっていく。なぜなら、こういう時の学園長は突飛なことを言い出すものだから。

「いま、学園には上級生が少ない状況じゃ。しかし、そろそろ帰ってくる頃でもある」
「まさか、」
「その『まさか』じゃ!安易に先生方が学園を離れるわけにもいかんしのう、帰ってきた上級生を捜索に向かわせることにする!」
「なにが起こっているか分からないのですよ……!?」
「私が行きましょうか?」
「それはならん。あの子らの危機を知らせてくれただけでも十分すぎるのじゃ、ここから先は学園の者だけで動くことにする」

すまんの、と目尻を下げる学園長の姿に、畳へと拳をつけた辰弥は頭を下げる。くのいち教室で臨時の教師をすることはあっても、辰弥は忍術学園の者ではなく、鬼城の者。過ぎた関与は、他所の城から余計な疑念を集めるかもしれないと、互いに理解していた。

「学園長先生、哉川です。急ぎ、こちらへ向かうよう小松田さんから言われたのですが」
「うむ、開けて良い」
「失礼します」

六郎太が襖を開けたときには、シナの隣から辰弥の姿は消えていた。音もなく、気配もなく姿を消す技術は流石プロの忍者ともいえる。二対の視線を受けて、六郎太は緩く首を傾げた。なにか、あったのだろうか。
5年い組に所属している六郎太は数日前から実習に出ていて、つい先ほど忍術学園に戻ったところだった。室内には足を踏み入れることはなく、そっと膝をつく。その身に纏う装束は所々汚れていて、よく見れば小さな傷もできていた。

「シナ先生」
「はい。……実習から戻ったばかりのところで申し訳ないのだけれど、またすぐに出てもらいます。その傷を治療し、支度を終えたらうちの子たちの捜索を」
「捜索、ですか」
「依頼を受けて月塚村というところにあずみさんと海さんを向かわせたのだけれど、その村は何年も前に土砂崩れに巻き込まれて、なくなっていたことが分かりました。あの子たちの足ならもうとっくに着いている頃で、……別の情報口から、緊急の知らせが」
「なるほど。それは、私だけで?」
「いいえ、予定ではもうそろそろ」

「学園長先生、神喰です。お呼びでしょうか」

六郎太の隣に静かに現れたのは、くのいち教室の上級生でもあり、渦中の人物となっている海の同室でもある久遠だった。菖蒲色の豊かな髪を揺らして、六郎太の隣に膝をつく。
六郎太と同様に数日前から忍術学園を離れていた久遠も、予定通りに実習を終えて戻ってきた。潜入に用いた華やかな着物を纏ったままの姿から、忍術学園に戻ってすぐに顔を出したことが分かる。怪我をしている様子は見られない久遠を認めて、シナは静かに頷いた。

「まずはふたりで、先行してもらいます。久遠さん、報告はあとで構わないからすぐに支度を整えて、学園を出てもらうわ。詳細は道中、彼に聞いてちょうだいね。あずみさんと……、海さんの身が、危ないかもしれないの」

いつも静かな翡翠の瞳を僅かに揺らして、久遠は両手を握り締める。それからすぐに「是」と返すと、3人の前から姿を消した。この着物では碌に戦えないと、自室へと急いだらしい久遠を見送り、六郎太も立ち上がる。
その背に声をかけたシナは、一枚の紙を六郎太へと渡す。折り畳まれたそれを広げると、目的地までの簡易な経路が描かれていた。忍術学園を離れることができないシナは、その美しい顔を曇らせて目を伏せる。

「貴方も、十分に気をつけて」
「まぁ、勘右衛門に恩を売れる程度に、私にできることをやります。……では、準備を急ぐので」
「ええ、よろしくね」

するりと身を翻した六郎太を見送り、シナは大きく息を吐く。けれども、すぐに表情を切り替えると学園長に向き直り口を開いた。学園にいても取れる行動はたくさんあるのだから、立ち止まってはいられない。



軽く体を揺らされていることに気づいて、目を開く。鈍痛を訴える頭を押さえながら上体を起こした海は、心配そうに見つめるあずみに息を飲んで、慌てて辺りを見渡した。薄く埃が積もっている小屋で、拘束はされていない。あずみにも傷はないように見える。

「ここは……?」
「わからないけれど、もしかしたら月塚村かもしれないわ」
「そういえば気を失う前、人影を見たような気がします」
「そう。……ごめんなさいね、海ちゃん。先に気を失うなんて、不甲斐ないわ」
「そんな……!私はあずみ先輩が庇ってくださったから、少しだけ保っただけですよ。私こそ足手纏いで、すみません」
「ううん!足手纏いなんて、海ちゃんがいなかったらわたし、もっと前に耐えられなかったと思うもの」

情けなく眉を下げる海の手を優しく握り、きゅっと目を細めたあずみの柔らかな微笑は、不可思議な現状に強張っている海の心を少しだけ溶かした。未だ頭への鈍痛は残っているけれど、耐えられないほどではない。
体勢を整えて手荷物を確認すると、なにひとつ欠けることなく揃っている。たけこに渡すはずだった薬も、不測の事態に備えて持っていた忍具も、桃色の装束もすべて。最初から拘束もされていなかったのだと、あずみが言う。それがなんだか、より不気味だった。

「隙を見て、抜け出しましょう」
「善意ではなさそうですか?」
「……外を見たら、わかるわ」

あずみがひとつだけある格子窓を指差す。軋む床板に気を配りながら格子窓へと近づいた海は、息を潜めて木製の格子に顔を寄せた。格子の隙間から覗く外は薄らと霧が立ち、白く翳っている。
その霧のなかを時折、村人が歩いていく。なにもおかしいことはないように見えたけれど、ふと、違和感に気づく。村人は誰ひとり表情を浮かべている者はなく、その顔はただ『無』だった。怪我をしているわけでも、飢えているわけでもない。感情をごっそりと抜いたような村人の姿に、海はなぜだか心臓が掴まれるような心地がした。
それでも、小さく息を飲みながら目を凝らす。人影と霧の奥に、何かが見えたような気がしたから。見え難い格子の前で、必死に目を細めている海の祈りが通じたのか、風に揺れて霧が薄まった瞬間、見えた光景に「あっ」と声が漏れる。
慌てて口許を押さえたけれど、一瞬だけ見えた光景が頭から離れなかった。祠のようなものを囲む、無数の石。――あれはきっと、墓地だ。生唾を飲んで、元の場所まで下がる。震える海の背をそっと撫でるあずみの手も、少し震えていた。

「まずは、着替えましょうね」
「……はい」

着物から桃色の装束へと着替えて、少ない武器を懐へと隠す。着物を包み直しながら「あ、」と声を洩らした海は、朝見たときよりも少しばかり崩れた包みを手にとる。忍者食とはべつに、準備していたものだ。

「あ、あの、あずみ先輩……これ、お腹が空いたときに、よければ」
「海ちゃんも用意してくれていたの?」
「え?」
「ふふ、実はわたしもあるの」

海のものよりも少し大きな包みが開かれると、形の良いおにぎりが3つ。こんな場所でもつやりとした白米が眩しくて、お腹がぐう、と鳴った。ふたりで顔を見合わせて笑う。
あずみに「腹が減ってはなんとやら、よね」と手渡されたおにぎりを齧る。頬がきゅっと痛むほど塩っぱいおにぎりに震える海に、「あ、あら!?」と慌てるあずみを見ているとなんだかおかしくなって、少しだけ涙が出た。




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