溺死体の群青 全身が、まるで鉛のようだった。幼い頃から動かし続けていた身体の動かし方も、呼吸の仕方すらも忘れたように一歩も動くことができないで、暗くて深い、何も見えない海底に一人座り込んでいる。そんな悪夢に囚われて、気付けば道場に入ることすらできなくなっていた。否、入ることはできる。ただ、誰かと一緒に入ることが、できなくなっていた。: 実家の道場ではあるけれど、一応指導者という立場でありながら道場に入れないというのは、指導者として致命的であると同時に、心に張り詰めていた糸を断つには十分だった。薄々、分かってはいたのだ。これといった才能もなく惰性で続けてきたようなもので、けれど始めたからには中途半端ではいられない。そうして練習を重ねることで確かに階級は上がったけれど、当然熱心に取り組んでいる人には敵わなくて、苦しくて、全部放り投げてみたくて。でも臆病な私は、辞めることすらできずに、指導者の立場にしがみついた。その結果がこれならば、きっと罰が当たったのだろう。生半可な気持ちで、立ち続けたから。 道場に立てないのならどうすればいいのだろう、そう悩んでいる時に今の社長に拾われて始めた仕事は、案外向いていたのだろうか。年下であり先輩でもある山村くんに助けてもらって、皆さんのお手伝いをすることができるのは大変でもあるけれど、とても楽しくて充実していた、と思う。どんなに輝くものに触れたって、自分から変わらない限り悪夢から逃げ出すことなんてできないのに。 「……最近、顔色が悪いように見えるが休めているのか」 「そうですよ、おやつのおにぎりも見かけませんし、風邪ですか?」 「あ、ううん、大丈夫ですよ。少し夜更かしをしてしまって、寝不足なんです」 プロデューサーさんに促されてレッスンへと向かう彼らの、その心配そうな視線に申し訳なくなる。いってらっしゃいと手を振れば、扉の奥へと消える後ろ姿に溜息を吐きながら背凭れへと身体を預ける。ただの、悪夢だ。海底の砂に埋まった両脚を抜く努力すらしないまま、呼吸ができずにもがき続けるだけの、ただの悪夢に魘されて、3日目。暫く見ていなかったから少し落ち込んでいるだけで、きっとすぐに元に戻る。戻らなければ、いけない。 「……よし、」 軽く両頬を叩いてデスクへと戻る。ひんやりとしたデスクの感触が、今は私を支えているような気がした。 事務所を覗くアイドルさんの賑やかな声をBGMに、完成させた書類をしっかりと保存する。凝り固まった首を回して一息吐くと、いつの間にかプロデューサーさんが隣に立っていた。何か不備があったかと慌てて姿勢を正せば、柔らかな笑みと共に否定され、「紹介しますね」と掌で示された先にいたひとに視線を奪われる。 綺麗な黒髪の、芯の強そうな眼差しの男の子に、柔らかな金髪の、息を呑むほど美しいひと。白い羽が宙を舞うような幻覚すら見えて、ほう、と感嘆してしまう。これまでにいろいろなタイプのアイドルさんに出逢ったけれど、こんなにも綺麗なひとに出逢ったのは、失礼かもしれないけれど初めてだった。清らかで儚くて、どこか仄暗く、それでも光を纏っているような不思議な存在感。 「新しくAltessimoというユニットを組むことになった二人を紹介したくて、今いいですか?」 「はい、ちょうど終わったところなので。事務員の遊馬琴子、です。大体事務所にいますが、手伝えることがあったら何でも言ってくださいね。どうぞよろしくお願いします」 「か、神楽麗と申しますっ。これから、よろしくお願いします!」 緊張している姿が初々しい彼に差し出された、綺麗な手をそっと握る。無骨な私にも分かるほどに、丁寧に手入れのされた手だった。そんな彼が慌てた様子で、隣に立つ金髪さんの身体を揺らす。いつか見た、宝石のような海に似た、翡翠の瞳がこちらを見下ろしている。何故だか彼の一挙一動から目が離せなくて、瞬きすら忘れて見つめたその先で、緩やかに弧を描いた薄い唇が開いた。 「……君は、とても静かで、美しい音を奏でているね。深い森の奥で揺れる木々や、海底で煌めく珊瑚のような、不思議な音がするよ。麗さんもそう思わない?」 「わた、わたしですか!?え、えっと、」 「ふ、ふふ、」 「遊馬さん?」 「初めて、音で例えられました」 堪えきれない笑みに、口許を隠す。道場で生きてきた私にとって、体捌きを褒められたことはあっても、自然や音に例えられたことは初めてだった。まだ名前も知らないのに、不思議なひと。脳に霧がかかるように広がる悪夢が晴れて、さらさらと砂が流れていく音が鼓膜に響く。なんだか今日は、よく眠れそうな気がした。一目惚れって、この歳になってもするんだなあ。 |