ああ、いきぐるしい。息苦しい息苦しい、生き苦しい。なんて、いきぐるしい世界なんだ。辺りの騒めきがノイズとなって耳から頭へと、思考を鈍らせる。ぐらんぐらんと揺れるような頭痛に、喉を締め付ける違和感。深い海の底へと沈んでいくような感覚と言えばいいのか。いや、そもそも俺は海底に沈んだことはないのだから考えても仕方のないことだ。だから、ただこう言えばいい。――息がしたい、と。


***


グチャ、グチャリ

「え、は……ア、」

なんだこれは。むせ返るほどに濃厚な、血の香り。真っ赤に染まった俺の手足や身体、辺りの壁や地面。それから何よりも重要なのは、驚くほどにすうっと入ってきた酸素。さっきまでの息苦しさなんて一片も感じず、むしろ息がしやすくなっていた。どうしてだろう。これの、おかげだろうか。ぐるり、と手首を一捻り。肉が潰れたような、抉れたような変な音がして、また手や地面を赤いものが濡らす。そうしたらいっそう、世界が明るくなって。

「あはっ!なぁんだ、こんなに簡単だったんだ」

幸いにして周囲の目はなかったものの、他の人間がいたらどうなっていたのか。少し疑問ではあるけれど、きっと俺は自分のために、自分が呼吸をするためにこの場に来た全員をこのカッターナイフで刺して切って抉って壊していたのだろう。気分よく誰かの腹に刺していたままのカッターナイフを抜き取り、地面に転がっていた肉片についていた布きれで拭う。このカッターナイフは思っていたよりも使いやすく、切りやすかった。傷口を抉るには不向きだろうが、そんな些細なことはどうにでもなる。
気づけば鼻歌まで歌っていた俺の、状況が一転したのはそれから少し経ってのことだった。

「……かん、ちゃん?」
「え?」
「なに、してるの?」
「……うみ」

どれだけ作業に夢中になっていたのだろうか。背後から聞こえた声に驚いて表情が崩れる。学校帰りだろうか、幼馴染の海が制服姿で真っ赤な、赤黒いものを背景に立ち尽くしていた。――困ったな、海は殺したくないのだけれど。現場を見られているのだ、良い言い訳なんて思いつく筈がない。これは困った、と苦笑いを浮かべながら思考する。この幼馴染にだけは知られたくなかったし、嫌われたくなかったな、なんて。そんなことを考えていると、いつの間にか海が視界から消えていた。不思議に思って視線を巡らせると、海はその白い頬を赤く染めて、どこか恍惚とした表情で俺の足元に跪いていた。

「海?どうしたの?」

意識して、優しい声色を出す。海は微笑み、小さな口を開いた。それはまるで歌のように、呪いのように響く。

「貴兄が乾きしときには我が血を与え、貴兄が飢えしときには我が肉を与え、貴兄の罪は我が贖い、貴兄の咎は我が償い、貴兄の業は我が背負い、貴兄の疫は我が請け負い、我が誉れの全てを貴兄に献上し、我が栄えの全てを貴兄に奉納し、防壁として貴兄と共に歩き、貴兄の喜びを共に喜び、貴兄の悲しみを共に悲しみ、斥候として貴兄と共に生き、貴兄の疲弊した折には全身でもってこれを支え、この手は貴兄の手となり獲物を取り、この足は貴兄の足となり地を駆け、この目は貴兄の目となり敵を捉え、この全力をもって貴兄の情欲を満たし、この全霊をもって貴兄に奉仕し、貴兄のために名を捨て、貴兄のために誇りを捨て、貴兄のために理念を捨て、貴兄を愛し、貴兄を敬い、貴兄以外の何も感じず、貴兄以外の何にも捕らわれず、貴兄以外の何も望まず、貴兄以外の何も欲さず、貴兄の許しなくしては眠ることもなく貴兄の許しなくしては呼吸することもない、ただ一言、貴兄からの言葉にのみ理由を求める、そんな惨めで情けない、貴兄によってまるで取るに足りない一回の下賤な奴隷になることを――ここに誓います」

そう言い切って息を吐いた海の表情は、見たことがないくらいに危うく、色っぽくて。あまりにも長い言葉なのに、驚くほどすんなりと胸に、頭に入ってきた言葉の羅列。どうすればいいのかなんて知らないのに、気づけば口を開いていた。

「……うん、そんな海を、許すよ」

ただ一言。この一言があれば海は、俺の望みなんてお見通しで動いてくれるだろう。俺の手となり足となり、ずっと傍にいてくれるのだ。ぞくりとした、甘い痺れが脳髄を走る。そんな未来を想像するだけで、俺の顔はだらしなく緩んでいた。