「ああー、これは……」
「止まないだろうねえ」

 鞄を肩に下げ、ビルの出入り口に並んだ大人二人の帰宅を阻むかのように、ざあざあと騒がしく音を立てて雨粒が地面を叩く。履き潰し気味のヒールで歩けば、間違いなく浸水してくるだろう。あの気持ち悪さを思い出して、眉間に力がはいる。
 私と同じく、降り続く雨を眺めて渋い顔をしているのが山下さん。私が山下さんを見た少し後、同じように山下さんが私を見る。困った顔で「事務所に傘、余ってたっけ?」と私に聞く。

「無いですね。珍しく売り切れました」
「はあ……。まあ、そうだよね」

 いつもは何本か、誰のものなのか分からない傘が傘立てに残っているのだが、今日ばかりは皆持ち帰ったようてすっからかんになっていたのを思い出す。先日の大掃除で綺麗になったのかと感心したが、こういう理由だったか。

「天気予報見てました?」
「朝はバタバタしてて見てなかったんだよね」
「あはは、私もです」

 私も見ていなかったのだが、鞄に入れっぱなしの折りたたみ傘がある。山下さんの会話を続けながら傘を取り出すと、山下さんは目を丸くする。

「えっ、俺たち仲間じゃなかったの?」
「傘がないとは言ってないです」
「プロデューサーちゃんの裏切り者。おじさんを置いていくの?」
「そんな、何も言ってないじゃないですか」

 分かりやすくいじけたフリをするので、「入れてあげませんよ」とわざとらしく呆れた声を出して見る。

「今の、ふゆみのマネ?」
「ふふ、正解」

 下はじきを押すと、勢いよく傘が開く。折りたたんだ時のサイズを重視したため、私一人ならともかく、山下さんと一緒なら濡れてしまうだろう。髪の毛が濡れなければ上々、だろうか。
 普段よりも高い位置で傘を持ち、山下さんも入るようにと手招く。もう少し高い方がいいだろうか。
 山下さんの身長に合わせて高さを変えようとすると、私の傘を持つ手に山下さんの手が重なる。そのまま、自然な流れで唇が重なり、傘は奪われる。離れていくときの、余裕のある穏やかな笑みがあまりにも色っぽくて、文句一つも出てこない。

「帰ろうか、名前ちゃん」

 濡れないように側にいてね、と、いつもよりゆっくりと歩き出すので、私も山下さんのすぐ横を歩く。

 それから、お互いに会話をはじめることもなく、雨が傘を叩く音だけがこだまする。私はその間、山下さんの顔を見ては、キスのことを思い出して顔を背けるということを、五回くらい繰り返していた。
 山下さんはどうして私にキスをしたのか。し易かったから? それとも、からかってるだけだろうか。考える度に柔らかく押し付けられたあの唇の感覚を思い出して、無意識のうちに唇を噛んでいる。

「……うーん、カッコつけてみたけどさ。おじさん、やっぱりこういうの苦手だ」

 不意に発せられた山下さんの声に顔を上げると、フニャっとした照れ顔と目が合った。

「唇、傷ついちゃうよ」
「えっ」
「……そんな油断した顔されると、さ。またしちゃいたくなるんだよね」

 山下さんという人を知っているから、なんとなく分かった。口調は軽くても名残惜しそうに見えるとき、山下さんは絶対身をに引いてしまう。キスがきっかけであやふやだけど近付いた距離を、広げてしまうのは嫌だった。
 気付いた時には、傘の手元を持つ山下さんの手を掴んでいた。どんなことを言えばいいのかわからない。でも、私が何か言わなければ、行動しなければ、この人はこのまま離れていってしまう。

「待ってたら、してくれますか。……、キス」

 らしくないことを言ったせいか、少し声が震えた。
 沈黙が怖い。はやく何かアクションしてほしい。ぎゅっと山下さんの手を握る。
 返事の代わりに、傘が斜めに傾き、また唇がおりてくる。今度は愛しむように、ゆっくりと、名残惜しそうに離れていく。

「濡れちゃったね」
「ですね」

 傘を傾けたことで、私も山下さんもあちこちが濡れてしまった。シャツの背中側がペッタリとくっ付いていて気持ち悪いが、私は穏やかに笑えている。

「今更なんだけど、聞いてもらってもいいかな」
「どうぞ」
「名前ちゃんのことが好きです」
「……ふふ、私も山下さんのことが好きです」