「あれ、昨日と同じ服」

 山下さんに何気ない感じで指摘され、私はうっかり肩を大きく揺らす。もちろん取り繕えなくて、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて山下先生は私のデスク横にパイプ椅子を持ってきて腰掛ける。放っておいてくれそうな雰囲気は、これっぽっちもない。

「彼氏のところに行ったにしちゃ、随分と不機嫌そうだけど……。大丈夫? おじさんが相談のろうか?」
「面白がってるなら、早く台本覚えてくださいね。プロデューサーさんが張り切ってとってきたお仕事なんですから」
「はいはい。セリフは順調におぼえてますよ。……肯定はしてないけど、否定もしないってことは、やっぱり何かあったんだね」

 山積みにした書類たちの隙間に、私のマグカップが置かれる。湯気と共にコーヒーの香ばしいかおりが鼻腔を擽る。いつも私が飲んでいるお徳用サイズのものではなく、旬くんたちが好んでいるような少しお高いコーヒーだろう。
「良いんですか?」と聞けば「もちろん」と、今度は優しく諭すような笑みを見せる。
 一口飲めば、キャラメルのような風味が柔らかく口の中に残り、コーヒーの熱は喉を通り、ゆっくりと私の中で圧迫されていたものを温めほぐしていくようだった。

「名前ちゃんは、割と溜め込む方じゃない? これは教師やってた経験則みたいなものなんだけどさ。名前ちゃんみたいに要領が良い子って、辛いことを誰かに救ってもらう経験が少なくて、長期間一人で溜め込んじゃうんだよね」

 要領が良いことには同意しかねるが、溜め込んでしまうのには思い当たることがいくつもある。答えないのが肯定になるというのは分かっていた。けれど、もう見透かされているのだろう。
 パソコンから山下さんの方へ身体の向きを変え、言葉を待つ。

「吐き出す相手は俺じゃないかもしれないけど、俺でよかったら話聞くよ。なんなら、別のおしゃべりでもいいし。がむしゃらに頑張るのも悪くないけど、たまにはゆっくりしようよ」

 私が持っていたマグカップに山下さんのビーカーがぶつかって、カチンとにぶい音がする。

「はい、乾杯」
「……先に飲んじゃいました」
「細かいことは気にしないの」

 乾杯をしたから、ともう一口コーヒーを飲む。
 山下さんのおかげで、肩の荷が下りたように楽になった。
 きっと、先生をやっていた時も、こうやって生徒と向き合っていたのだろう。山下先生になら、と相談事をする生徒もいたはずだ。見たことはない先生をしている山下さんのことを想像する。

「なあに、俺のこと見て笑わないでよ……」
「ふふ、ごめんなさい」
「ま、名前ちゃんが怖い顔してるよりはいいけどね」
「怖い顔してました?」
「難題にぶつかったときのはざまさんみたいだった」

 想像するに容易い例え方だ。跡が残らないように、と眉間に指を当ててマッサージをしてみる。

「彼氏と別れたんです」

 思ったよりも、言葉はすんなりと口から出て行った。そんなに悲しくもならない。その代わり、ということではないんだろうけれど、山下さんの方がバツの悪そうな、悲しそうな、曖昧な表現をしていた。
「ごめんね」いつもより低く、少し掠れた声で山下さんが一言呟く。

「謝ることなんてないですよ。打ち明けるかどうかは私が決めたことですから。それに、別れ話を切り出したのは私から」
「そうなの?」
「私とあの人は、この先ずっと一緒にいる相手はないと結論が出た。それだけです。昨夜は最後の賭けに出て、想定通りの結果だったから、お別れをした」
「でも、名前ちゃんと……元カレ? 付き合い長いよね」
「良く覚えてますね」

 彼氏がいるということは何度も話したが、どのくらい付き合っていたか話した回数も、相手も少ないはずだ。私が素直に驚くと、「まあ、それはね……」と何故かはぐらかされる。

「大学生から社会人になっても付き合い方が変わらなかったから、ちょっと悪い方向に堕落していったんです。多分、お互いに」
「……名前ちゃんは、頑張ってたよ」
「そりゃあ、山下さんの前ではがんばりましたよ。だって私は、315プロダクションの事務員2号だし、お仕事も大変だけど楽しいから。でもそれって、彼には伝わらないものだから」

 そういうわけで、この話は終わりです。
 無理やり話を終わらせてコーヒーを飲む。そうしないと、胸が苦しくなりそうだった。思い出して引きずりたくはない。
 山下さんは私の気持ちを汲んでくれたのか、それ以上言及してくることはなかった。最後に「頑張ったね」と、私を肯定してくれた優しさが胸に痞えていたものを流していく。

「山下さんのそういう人たらしなところ、嫌いじゃないです」
「もうちょい素直な言い方して欲しいな」
「えーっと、……好き?」
「おじさんも名前ちゃんのこと好きだよ」

 一瞬というには少し長い間を開けて、「えっ?」という気の抜けた声をだしてしまった。

「いや、ごめん。えーっと」
「ねえそれ、失恋後の女に言うのめちゃくちゃずるいヤツですからね。しかも言った後に照れるのなんですか」
「ズルくなるつもりはなくて……」
「じゃあなんですか」

 顔を背けてこっちを見てくれない山下さんに、よく分からない感情が生まれてくる。返答次第ではビンタを一発入れてもいい気がする。
 横目でそっと私を見て、観念したようにぼそぼそと話し始める。

「ちゃんと格好つけて言うからさ、もうちょっと待っててくれない?」
「どのくらい?」
「クリスマス前には……かな?」
「……期待させること言ってるの、本当に分かってます?」
「分かってるよ。期待して待ってて」

 マグカップを持つ手の上に、山下さんの大きな手が重なる。
 クリスマスまでのあと一か月、いったいなにが起こるのか。それは私の予測通りか、その上をいくのか。
 山下さんとのこれからを想像する私の中では、もうすっかり、別れの辛さなんて無くなっていた。