「それじゃ、See you tomorrow! プロデューサーちゃん!」
「君も無理せず、早く帰るように」
「あんまり夜更かししないようにね」

 それぞれの挨拶に「はーい」と返事をしてゆるく二回手を振る。事務所の扉が閉まり、三人が階段を降りていく音を聞いてから、私はぐっと両手を天井に向けて伸ばす。ボキッと右肩が悲鳴をあげる。回せばごりごりと嫌な音がする。
 あともう一息、とデスクに向かい取り掛かる仕事は、もう一息で終わるような量ではない。けれどこれらをなんとかしなくては、担当アイドルの仕事が回らなくなる。だからといって仕事を詰め込み過ぎても、疲労を無駄に溜め込んでしまう。バランスをとるのが私の仕事。責任は重大だ。
 そんな重責から逃れるように、気分転換しようと椅子に座ったままストレッチをして、体のコリをほぐしていく。身体を捻ったところで、ぐう、と情けない音が鳴る。一人でよかった。お腹を押さえると、また、ぐうう、と鳴く。
 やはり休息は大切だ。ご飯にしよう。
 デスクの引き出しから、買い置きしていたカップ麺を取り出す。うどんが一つ、ラーメンが二つ、蕎麦が一つ。カップ麺ごときにさっぱりもこってりもないのだけれど、夜遅いことを考慮して蕎麦を選ぶ。サクサク衣が良いので天ぷらは蓋の上へ、粉末スープを麺の上にふりかける。蕎麦も仕事も早く片付けてしまおう。
 一人だからと油断して、楽しい気分でもないのに鼻歌なんて歌いながら、事務所外の給湯室へ向かおうとドアを開けると、硲先生の顔が目の前にある。なぜ。
 数秒固まって、硲先生の視線が私の手元に向けられていることに気付く。

「あ、あの……」
「それは、君の夕食か?」
「……はい」

 硲先生の目付きが鋭くなるのが分かる。なぜ私が彼らの、いや硲先生の前で食事をしないのか。その理由がこれだ。硲先生に不健康生活を知られると面倒だからだ。
 あはは、と笑ってごまかせる様子ではない。しかし繋ぎの言葉が欲しい。混乱している頭がうまく働くはずもなく、「ここ最近忙しくて」なんて口から出てしまって後悔する。

「ここ最近、ではないだろう。我々のために日々頑張ってくれている事には感謝しているが、自分の身体を疎かにしてどうする」

 あ、と気付いた瞬間にはカップ麺の容器を奪われる。「あっ」と声に出した時にはすでに遅く、カップ麺は上から綺麗にラップで封をされ、なぜか冷蔵庫の中に保管される。
 もう一度、硲先生の顔を見る。いつもの真面目な表情を真っ直ぐ私に向けて「今から外食に行く」と宣言をされる。

「あっ、はい。どうぞ……」
「どうぞ、ではない。君も行くんだ」
「えっ」
「早く準備をしなければ、ラストオーダーに間に合わなくなる」

 絶対に私と一緒に行くようだ。そんな急に、と思ったが、硲先生は割と、これが正しいと決まったら意見を曲げない頑固者だった。いまいち腑に落ちないが、財布と事務所の鍵を片手に、硲先生と事務所を出る。
 昼間はそこそこ暖かかったのだが、夜になれば気温は一変しており、風が吹くたび身を縮めてぶるりと震えてしまう。九分丈のパンツはもうやめるべきだった。クローゼットにしまおうと決める。

 寒い中、硲先生が連れていってくれたのは、こじんまりとした定食屋さんだった。看板は少し砂埃で汚れているが、良く言えばレトロ感があり雰囲気も悪くない。けれど一人では絶対に入らないような店構えだ。硲先生は私のように躊躇することなく、店の中へ入っていく。

「……? どうかしたか」
「いえ、なにも」

 決してからかうような人ではないが、初めての店に緊張していることがバレないよう平気なふりをして、硲先生に続いて入店する。
 いかにも定食屋、といった店内に漂うのは揚げ物の匂い。そして、炊きたての白米の匂い。炊きたての白米なんていつから食べていないだろう。匂いにつられて、ぐう、と思い出したようにお腹が鳴る。聞かれてしまっただろうか。硲先生の顔を見るが、特にコメントはなく、メニュー表を渡してくる。

「ここは山下くんが行きつけの店らしい。以前食べた肉じゃがの定食は美味しかった。野菜も摂れて体も温まるからお勧めしたいが。……君は麺類が好きだったか?」
「え、えーと……お米が食べたい、です」
「……そうか」

 無意識で口にしていた。私は温かいご飯が食べたかったのだ。お米が食べたい、なんて間抜けな回答をしてしまうくらい、ひどい状況だったのかもしれない。聞いていたのが硲先生でよかった。
 湯呑みで出てきた温かいお茶をいただいているうちに、硲先生がてきぱきと二人分のメニューを注文してくれる。優しそうな腰の曲がったおばあちゃんが、「次郎くんのお友達かい?」と私に聞くので、実際の関係は違うのだが、なんとなく頷いておいた。本当に次郎先生の行きつけらしい。
 それからしばらくの間、無言が続く。
 私は時折店内を見回しながら、硲先生のことを考える。私が高校二年生の時の担任教師が硲先生だった。プロデューサーという立場の今だからこそ、真っ直ぐ情熱的な先生だと知っているけれど、あの時の私にとって、硲先生はよく分からない人だった。受験生でもなく、入学仕立てでもない中途半端な時期に、よく分からないけど熱の入った授業を受けていたのだ。私の同級生だって同じことを言いそうだ。あの時の熱意を今みたいに感じ取れていたら、硲先生との高校生活の思い出も出来たんだろうか。考え直したってどうしようもないことだな、とため息を吐く。
 そんな私の様子を見た硲先生が「考え事か?」と聞いてくるので、素直に「硲先生が生徒だった時のことを思い出していました」と答える。

「あの時の私は気付けなかったけど、硲先生って生徒を気にかけて色々してくれてたんですよね」
「当時はまだ若かったからな。空回り、ということも多かっただろう」
「よく分かんなかったけど、面白かったですよ。あ、もしかして今も、そうですか。私が生徒だったから、つい面倒みちゃうとか」

 なんちゃって。と言う前に、私と硲先生の目の前に料理が運ばれて来た。
 柔らかな艶のある白米に、豆腐と長ネギのシンプルなお味噌汁。小鉢には油揚げと野菜の和え物、そしてメインにはほろほろになるまで煮込まれた肉じゃが。カップ麺や冷えたお弁当ではない、久々に美味しそうと感じるご飯だ。

「いただきます」
「いただきます」

 声が重なって、誰かと食事を共にすることも久々なんだと実感する。
 大きなじゃがいもを箸で割ることなく、一口でぱくりといただく。ほんのり甘い、濃いめの汁が染み込んで、咀嚼するたびじゃがいもの素朴な味と混ざり合って更に美味しくなる。お味噌汁の豆腐は絹ごしで、つるりと喉を通っていく。

「美味しいご飯って、良いですね」
「そうだろう」硲先生がフッと笑う。
「……君は昔から、要領が良いのに休息を取るのが苦手な人間だった」

 終わったと思っていた昔話が、硲先生から再開される。孤立することもなく、中心となるような事をしなかった、クラスの中でも本当に目立たなかった私の事を覚えていたことに驚きを隠せない。

「学生という立場なら、それほど疲弊することもなかったのだろうが、社会人となれば別だ。山下くんも舞田くんも、君が少し痩せたことに気付いている」
「えっ。痩せました? 私」
「褒めていない。心配しているんだ」
「……すみません。ご心配をおかけしました」
「我々をもう少し頼ってくれないか、プロデューサー」





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「それが?」
「二週間前……」
「それから?」
「ほぼ毎日、硲先生にご飯連れて行ってもらってる……」
「……付き合ってんの?」
「ない、……ない。と思う。わからない……」

 私の仕事用デスクにもたれ掛かり、山下先生は憐れむような目で私を見る。やめてほしい。
 先述の問答の通り、この二週間、硲先生の予定が合わない日を除いて食事を共にしていた。私に拒否権など無く、飽きが来ないよう毎回違う店を探して連れて行ってくれるのだ。おかげで事務所近辺の美味しいレストランに詳しくなり、そして体重が一キロ増えた。
 いったいどうして。そんなことは私が聞きたい。

「それにしても、珍しいよね。はざまさんがそんなに面倒見るなんて。いや、面倒見は良い方だけど、優しくっていうよりは厳しく持ち上げていくタイプの人じゃない?」
「そう。私もそれなら分かるんです……。口煩く栄養取れって言われた方が、らしいなって思えるんです。なのに、なんで、毎日美味しいもの食べさせてくれるかがわからない……。しかも」
「しかも?」
「全部おごり……」
「えっ、ウソ!」

 奢り、の部分に反応したのだろう。「俺も一緒に行ってもいい?」と聞かれるので「硲先生の負担が増えたら申し訳ないのでダメ」と断る。
 連れて行ってもらうのはそう値段の高い場所ではないし、お酒を飲むこともなかったので一度の料金はそれほどでもない。けれどそれが毎日ともなれば話は別だ。それなのに、硲先生は私がお金を払うことは許さず、いつのまにか先に支払いをしてくれているのだ。
 なんとか一度は私が、と思って行動しているのに、一度も叶ったことはない。ここ最近は、トイレに行くふりをして会計を終わらせて来たり、先払いしている日もあった。

「私、そんなに困ってるように見えます?」
「見えない。けど、私生活が謎だよね。プロデューサーちゃんって」
「そうですか?」

 思い返してみれば、山下先生にも、ほかのメンバーにも、私生活の話なんてしたことがない。もっと思い返してみれば、私生活と呼べるものがあったかさえわからない。仕事をする。家に帰る。寝る。だけのサイクルが続いていて、特に何もないのではないか。

「普段、暇な時って何してるの?」
「……山下先生」
「えっ、なに」
「暇な時って何をすればいいですか」
「何って……、あ」

 私の斜め後ろに視線をずらして、目を大きく開く。なに、と言おうとしたその瞬間、両肩に力強く大きな手が置かれ、キャスター付きの椅子を勢いよく半回転させられる。

「プロデューサー」

 再度両肩に、硲先生の手が置かれる。少し痛みを感じるほどに力強く、私は開いた口を塞ぐことも忘れる。ちょうど逆光で眼鏡が光り、表情が見えない。こわい。
 振り返ることは許されない雰囲気なので、横目で山下先生に助けを求める。深刻な表情で首を横に振られる。こうなってしまった硲先生は、助言こそ拾えどブレーキが効かない。私だって知っている。

「休みの日はいつだ」
「今週の、木曜です……」
「その日、私が予約する。空けておくように」
「はい……」
「特別身体を動かすような事はしないが、歩きやすい靴が望ましい。踵が五センチ以下の靴が良いだろう。服装は自由で構わない」
「えっ、あの」
「待ち合わせは駅前だ。詳細は追って連絡する」
「ちょっと、あの」
「では山下くん。我々はそろそろダンスレッスンの時間だ」
「はーい。……じゃ、プロデューサーちゃん、頑張って」

 ぽん、と背中を叩いて、山下先生と硲先生は事務所を出て行く。ドアの向こうから「俺がいる前でデートの約束なんかして良かったんですか」という気だるい問いに、「出掛けるという結果が変わらないのだから、問題はない」という生真面目な回答が聞こえてくる。

「……、デート、って、否定、しないの」

 勘弁してよ、そういうのズルイ。
 吐き出した抗議は届くはずもなく、木曜日の予定はきっちりと埋まるのだ。