そう、今日は私の誕生日だ。
事務所でお祝いの言葉をたくさんもらって、お菓子やケーキを口に突っ込まれたり楽しく過ごしていてすっかり忘れていたのだが、今日は硲先生とのごはんの日である。
仕事を終えて、二人で並んで硲先生が予約してくれていた、和食中心の創作料理店に入る。歳を一つ重ねたからか、今日の話題は仕事ではなく私の思い出話が中心で、初めて二人っきりでお酒を飲んだ。
これがいけなかった。油断していたのだ。全くお酒が飲めない人間ではないし、打ち上げやら決起会と称して、S.E.Mのメンバー三人と共にお酒を飲んだことは何度もある。特に体調が悪いとかもなかった。硲先生は何も悪くない。私に無理にお酒を進めるようなことはしていないし、お互いに自分のペースでお酒を楽しんだ。だから、ついいつもの限度を超えて飲んでしまった。
完全に酔った。けれど、ちょっと足元が覚束ないだけ。意識を飛ばしたり、思考があやふやになるほど悪い酔い方をしないのが、自分のいいところだ。お会計はいつものとおり申し訳なく硲先生が済ませてしまい、硲先生の後ろをついて歩く。
硲先生と初めてご飯を共にしたついこの間までは秋だったのに、すでに季節は冬へと移り変わろうとしている。冷たく澄んだ夜の空気のおかげで、意識もはっきりしてきた。こんなに飲むんだったら、細いヒールはやめておくべきだったかなあ、なんてぼんやりと考えながら、硲先生の影を踏む。細くて長い影だ。街頭の灯りに照らされて、影は硲先生らしく真っ直ぐ伸びているが、頭のところだけ少しフワフワしていて可愛い。きっと、このまま硲先生に可愛いと告げれば、「君の可愛いの定義が理解できない」と説明を求められそうだ。一人でこっそり笑って、ちゃんと前を見ていなかったので、硲先生が立ち止まったことに気付かず、背中に思い切りぶつかってしまう。
「……すみません」
「いや、すまない。私こそ、随分と君を酔わせてしまった」
大丈夫、という言葉は硲先生に腰を抱き寄せられるという意外な行動により、喉につっかえて出てこなくなってしまった。なぜ、一体どうして。頭を悩ませる間も無く、すぐに私がどうしようもない酔っ払いに見えるからだと気付く。まさかこのままで歩かないよね、と硲先生の顔を覗き込むが、「眠いのか?」と聞かれてしまう。
「眠くはないんですけど……」
「無理はしなくていい。今日は電車での帰宅だったか。……一人で帰れるだろうか」
「だ、大丈夫ですよお! 寝過ごしたりしませんし、仮に寝過ごしたとしてもちゃんとどうにかできますから……おっと」
今度はちゃんと大丈夫と言えたのに、うっかりヒールをコンクリートの溝の隙間に引っ掛けてしまいバランスを崩す。硲先生が腰を支えてくれていなかったら、そのまま転んでいたかもしれない。「助かりました」とお礼を言って離れようとするが、硲先生の手に力が込められたのを感じる。逃げられない展開だ。
「強がるのは良くない。このまま私と共に帰ろう」
逃げられないうえ、拒否ができない展開だった。一度頷いてしまい、歩道横に停車していたタクシーに乗り込むことになる。
■
そこまで酔っていないんです。そう言って、硲先生の家に着いたら、このままタクシーに乗って自宅に帰ることもできた。それなのに何も言わずに、今私は硲先生の住むマンションの一室に上がり込んでしまった。
こういうことなら、もっとお酒を飲んでおけばよかった。いっそ、眠って意識を飛ばしてしまえばよかった、なんて後悔をしながら、どこか期待して断らなかったのも事実であって、そういうズルい人間だった自分に幻滅する。それか、もっとズルい人間になれればよかった。中途半端が、一番損をする。
「どうかしたのか?」
無音の室内に硲先生の声だけが響く。それだけで心臓が跳ね上がって、悪いことがバレてしまいそうな子供のような心情で、硲先生の表情を、次の言葉を待ってしまう。そんな私の不安を、元教師としての経験かなにかで感じ取ったのだろう。
「そう緊張しなくていい。まずは上着と荷物を預かろう。それから、準備をしておくから脱衣所で着替えてくるといい」
安心させようという意味で肩に置かれた硲先生の手の大きさに、自分でも驚くほど反応してしまった。あからさまに意識していますと言っているような反応で、硲先生も驚いている。
なんとかしなきゃ、と慌てて「ちょっと眠くて、ボーっとしてました」と笑って誤魔化してみる。硲先生の表情は変わらないままで、私はすぐに誤魔化しきれなかったと気付く。
「……ごめんなさい」
「……謝らないでほしい。むしろ、君に謝らなければならないのは」
そこで硲先生の言葉が途切れ、息を吐く音が続く。
「いいや、違う。……続きは明日にしよう。いつまでもこうして立ち尽くしているわけにもいかないからな」
硲先生に促されて、ようやく重たい鞄とコートを渡し、代わりに綺麗に畳まれたスウェットのトレーナーとズボンを受け取る。そのまま会話を最低限に、脱衣所の扉を閉める。
扉を閉めてすぐ、大きく息を吐いて、ずるずると壁に体重を預けながら座り込む。酔いなんてすっかり醒めてしまった、なんて思ったが自分の息のアルコールの匂いにまたため息が出た。シャツも少し、飲食店の油っぽい匂いがする。判断力を鈍らせた今日の飲み会に参加しなきゃよかったと後悔したって、もう遅い。それに、硲先生の誘いを断れたはずがない。だって。……だって、と脳内で続いた言葉に、また後悔する。
「……ふふ。私、プロデューサー失格じゃないですか」
好きだなんて気持ち、認識してしまったらもう遅い。
いままでは、少女漫画やテレビドラマのような展開を体験しているだけだと無意識に思い込んでいたのだろう。好きという恋愛感情は、この仕事に不要である。けれど期待してしまう。現に、私はタクシーであのまま帰宅することなく、こうして硲先生の家に上がり込み、柔軟剤の香りが控えめなスウェットに袖を通してしまっている。丈も袖も、微妙に丈が余ってしまうことにドキドキしているなんて、絶対に言えない。
スーツを簡単に畳み終えたのと同時に、自分の気持ちにも整理をつける。
私の誕生日だったから、今日だけは私を許そう。けれど、これっきりにする。明日の朝は早く起きて、これ以上迷惑にならないようにここを出よう。
最後に一回、大きく深呼吸をして硲先生の元へ戻る。
私の着替えが長かったのか、硲先生もパジャマに袖を通していた。ホテルや旅館にある浴衣姿なら何度か目にしたことはあるが、なかなか見ることが出来ない新鮮な姿に見蕩れてしまう。
「着替えの途中で眠ってしまったのではないかと思って、今そちらに行くところだった」
「……私が着替えてる途中だったら、どうするんですか」
「ふむ、それは考えていなかった」
「駄目じゃないですか」
ちょっとぬけている硲先生を見てか、決心したのが良かったのか、意外とまともに話せている自分に安心した。安心したら、ようやく眠気が顔をだして大きな欠伸がでた。
「我々の明日の予定は昼からだったが、君は?」
「私も一緒です。明日は午前休なので、お昼から出社で現場の同行ですね。だから一度家に帰ろうと思います」
「そうか、安心した」
私の予定まで心配してくれる硲先生は、やはり大人だ。自分も成人して、一緒に仕事をするようになって追い付いたような気でいたが、やはり差は埋まらないようだ。
誘導されるままベッドを借りて、すぐに瞼が重くなる。うとうとしながら最後に聞いた「おやすみ」と優しい言葉にもったいなさを感じながら、私は眠りに落ちていく。
■
いい匂いにつられて起きてすぐ、私は後悔する。目の前には、すでに着替えを済ませて私の顔を覗き込んでいた硲先生の顔があった。恐らく、いや確実に寝顔もバッチリ見られているのだろう。数秒固まった後に、そっと顔を隠してももう遅い。
「よく眠っていたな」
「……見ないでください」
「朝食ができたから起こそうと思ったが、あまりに気持ちよさそうに寝ていたので、少し観察してしまった」
「やめてください……」
昨日の決意は一体何だったのか。堪らず両手で顔を覆い隠す。
早起きしてすぐに此処を出ていこうと決めていたのに、硲先生より遅く起きて、しかも朝食はきっちり二人分用意されていた。そして寝顔を観察をされていたなんて、女としても人としても終わったのではないだろうか。少しだけ開けた指の隙間から硲先生の様子を伺うと、まだこちらを見ていて、心なしか少し笑っているように見える。
なるべく硲先生と顔を合わせないようにしてベッドから起き上がり、朝食とコーヒーが用意されたリビングのテーブルに着く。バターのしみ込んだ狐色トーストに、サラダと林檎。丁寧に私の分だけ、ウサギの形にカットされている。なぜ、と聞こうとしたが、口は「朝はパン派なんですね」と動く。
「意外だっただろうか? 時間に余裕があれば白米と味噌汁を用意するのだが、毎日は難しい。しかし朝食を抜くということも避けたい。なので、手軽に摂取できるパンやシリアルも時には活用すべきだと」
「硲先生、それは長くなるやつですね」
「む……、すまない。それでは」
いただきます、の声が重なる。お互いに視線が合って、以前もこんなことがあったなと思い出す。
パンを頬張ると、じわっと口の中でバターの風味と塩気が広がる。朝食をしっかり摂ることが久しぶりで、最初の数口でお腹が満たされてしまうが、きっとそれを正直に言えば、また硲先生に過剰な心配をされてしまうだろう。もう心配はかけないし、特別なことは望まないようにしようと昨夜決めたのだから、絶対に言わない。
お互いの皿が半分ほど空いたところで、硲先生が「ところで」と話を切り出す。
「……私は君に、忠告と謝らねばならないことがある」
箸を置き、先ほどの穏やかな表情から一変、少し声のトーンも落ちる。これは重要な話なんだろうと察した私も、手に持っていたトーストのかけらを更に置く。テレビの音もない、道路を行き交う車の音もしない部屋に、硲先生が小さく息を吐く音が聞こえる。
「異性と二人きりの時に、酒に酔った姿を見せるのは良くないことだ。私だからよかった、なんてことはない。私だって、下心くらいある。君が酔っていることをわかっていて、介抱すると体の良いことを言って連れ帰ってしまったんだ」
「……それって」
「だから謝りたい。……すまない。未遂ではあるが、君にひどいことをしてしまった」
突然の告白と謝罪に、頭が追い付かない。硲先生の口から下心なんて言葉がでてくるなんて思わなかった。それも私相手にだ。ちょっとうれしいと思ってしまうこの気持ちを、素直に伝えてもいいだろうか。私だって、硲先生に誤解させたまま着いてきてしまったことを謝りたい。
段々と、抑えていた感情と理性的な自分の言い訳が胸の内に湧き上がり、大きな渦を作っていく。声に出してしまえたら楽なのかもしれないが、整理のつかないこの私の抱えている気持ちは、一体どのような言葉になるのだろう。分からないまま、零れてきそうになった涙をぐっとこらえる。
「硲先生、謝らないでください」
「しかし」
「私が酷いんです。本当は、ちゃんと一人で帰れるくらい平気だった。そこまで酔っていないのに、硲先生の誘いに乗ることを選んでしまった。硲先生ならいいかな、なんて甘い考えを持って着いてきて、……こうして硲先生に謝らせてしまった。本当に悪いのは、私のほうです」
全てを伝えきった私には、硲先生の表情を読む余裕はない。唇を噛んで、言葉を待つ。怒られるだろうか。失望されただろうか。
硲先生の大きな手が、ゆっくりと私の方に伸びてくる。頬の近くに触れそうになったところで、驚いて姿勢を後ろに引っ込めてしまう。
「……失礼。あまりにも強く噛んでいたから、唇を傷つけるのではと思ったのだが」
何も塗っていない、少しかさついた唇の上を親指が滑る。硲先生は、優しい顔をしている。
「都合のいいようにとってしまってもいいだろうか」
「……はい」
「私は君が好きだ。君は私の気持ちに応えてくれるか?」
「頷く勇気がないので、……もう少し強引に来てくれませんか」
「そうか。それでは。君が好きだ。これから公私ともに、よろしく頼む」
右手を差し出される。握手を求められているとすぐに気づき、硲先生らしいなと笑ってしまう。その手をとって、「硲先生は本当に優しいですね」と揶揄するように言えば、少し顔を赤らめて「あまりこういったことには慣れていない。至らないことがあれば、すぐに教えてほしい」と真面目に返される。
「ところで、ずっと思っていたのだが、硲先生と敬称呼ぶのはやめないか?」
「えっ? それは、ほら、そっちの方がなれてますし」
「それは重々承知しているが、君に先生と呼ばれると、後ろめたさがだな……」
「……確かに」
少女漫画でよくある、先生と生徒の禁断の恋みたいで、真面目な硲先生相手だと私にも罪悪感が生まれてくる。元生徒と元担任教師、という関係性があったので間違いではないのだが、それを楽しめるほどの余裕は今の私にはない。
硲さん、と呼べば頭の中に髭を生やした長身の担当アイドルを思い出す。他の呼び名……と考えて金髪の担当アイドルが元気よく彼の名前を呼ぶ姿がちらつく。
「みちおさん……?」
呼びなれない下の名前を口に出してみて、少し恥ずかしさがジワジワとこみ上げてくる。けれど、硲先生は満足そうに頷いて「それがいい」と決定してしまう。
「絶対に山下先生にからかわれるやつですよー……」
「堂々としていれば問題ないだろう」
「……硲先せ、じゃなくて、道夫さんってそういう人ですよね」
「そういう人、とは?」
「私みたいにぐらぐらしていない、まっすぐな人ってことです」