ズルい大人 の続き

 今日のスケジュールは硲先生の取材と、舞田先生が出演するバラエティー番組の打ち合わせのみ。それも午前中に終わってしまい、二人はほんのちょっとした休暇を楽しむべく、事務所を後にする。
 ここしばらく、地方でのロケや長時間の収録、さらに合間を縫ってのレッスンで多忙だったS.E.Mに少しでも休んで貰おうと、意図的に予定を減らしたのだ。
 ちなみに私は、この忙しさに感けて怠っていた事務仕事を片付けなくてはならない。出演オファーのある仕事を選定し、無理のない範囲で受け、難しいものは後に響かぬよう辞退の連絡を入れる。
 もちろん、私だけで決められるものではなく、実際に出演するメンバー、特に硲先生の意見も聞かなくてはならないが、事前に整理をしておくことは大切だ。
 送られてきた企画書に目を通して、不要なコピー用紙の裏に簡単なスケジュールを組んでみる。日中にも関わらず私以外の人間がいない事務所に、サインペンが紙を擦る音だけが響く。パソコンがあるにも関わらず、アナログな方法を取ってしまうのは硲先生の影響なのだろう。

 企画書に一通り目を通し終わったところで、事務所の扉が開く。誰かが営業やレッスンから帰ってきたのだろう。椅子の背もたれをぐっと後ろに倒し、パーテーションの隙間からその人物を確認しながら「おかえりなさい」と声をかける。姿を現したのは、意外な人物だった。

「次郎先生」
「ただいまー、って言ったほうがいい?」
「言わなくていいです」

 今日は一日休みだったはずの次郎先生が、事務所に姿を現わすなんて誰が予想するだろうか。誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。
 私が疑問いっぱいの眼差しで次郎先生を見ていたのが伝わったのか、大きな茶色のカバンの中から見たことのある台本を取り出し「これ」と苦笑する。

「台詞を覚えようって家で台本開いても、なかなか集中出来なくてねえ。今日の事務所は静かだって、るいに聞いたから来てみたんだけど」
「ああ、別に好きに使って良いんですけど……」
「それじゃ、奥の会議スペース借りるね」

 上着を脱ぎながら、次郎先生は事務机の背後にある会議スペースへと移動する。すれ違うとき、ふわりと香水かなにかの香りがする。女性物の甘すぎるものではなく、ムスクのような、花のような。香りにつられてしまったが、「お仕事いいの?」と次郎先生の言葉にハッとして、視線を企画書に戻す。
 それから暫くは、台本をめくる音、ペンが紙の上を滑る音だけが響いていた。落ち着いて作業が出来る空間のように思えるが、私の頭の中はあの柔らかな香りが脳内を占めており、なかなか手が動かない。
 次郎先生が珍しく香水をつけていること、昼間なのに事務所が静かなこと、色々な要因が重なって、気付いたら次郎先生を意識してしまっているのだろう。いっそ、本人に話題を振ってみた方が楽になれるのかもしれない。
 思い立ってすぐ、机から離れて給湯室へ向かう。だんだんとものが置けなくなってきた戸棚から、自分のマグカップと、なぜか置いてあるビーカーを取り出す。その二つの中にインスタントコーヒーの粉を入れると、芳ばしい香りが鼻をくすぐる。ポットから湯を落とせば、その香りは更に広がっていく。
 次郎先生のあの香水の香りも、コーヒーの香りで上書きされるだろうか。

「あっ、……っつい」

 上の空の状態で、ビーカーに熱湯を流し込んでしまう。熱くなるガラスを直に持っていたため、当然指を傷めてしまった。じわりじわりと、熱で麻痺していた痛覚が戻ってくる。慌てて冷水に指を付けてみたが、すぐに熱を持ちだす。重傷なのか大したことないのか、よくわからない。
 今度は火傷しないよう、未使用の布巾に包んで持ち運ぶ。
 真剣な眼差しで台本を熟読している次郎先生に「どうぞ」と邪魔にならない、最低限の声をかけて、彼の目の前の机にコーヒーを置く。視線も合わなければそのまま場を離れようと思っていたのだが、一瞬のうちにビーカーから離した手を絡め取られていた。

「ありがと、プロデューサーちゃん」
「いいえ、いいんです。……それで、あの」
「火傷したんでしょ。事務所が静かだから、さっき声聞こえてきたよ。……じゃ、見せて」

 制止する間もなく、次郎先生の大きく冷たい手に絡め取られて包まれる。強い力ではないので振りほどくことは簡単に出来るのだが、まるで獲物を捉えたかのような真っ直ぐ私を見るその視線のせいで動けない。
 私の手は次郎先生の、次郎先生の手は私の体温に馴染み、同じ温度に変わっていく。いつのまにか、私の手を包んでいた手は、お互いの指を交差して絡んでいる。何を意図するのか分からず、次郎先生の顔を見る。

「あのねえ……。少し前に、本気出すよって言ったでしょ。それなのに隙だらけでどうするの。仕事が忙しい間は我慢したけど、今は何するかわからないよ」
「それ、は……」
「……なんて、困らせたい訳じゃないんだけどね」

 言葉を濁した私を見て、繋がれた手ははするりと解けていく。
 あの時の事を、忘れたわけではない。忘れてはいないが、考えないようにしていた。おそらく、私が何でもないように、何もなかったかのように振る舞うのを見て、次郎先生は合わせてくれたのだ。
 だってあの時、次郎先生は本当にズルかった。どうして今、アイドルとプロデューサーという関係が結ばれてしまってからなのか。一年、いや、五年前であれば。そう考えたところで、状況が変わるわけではない。

「プロデューサーちゃんって、考えて考えぬいて、安全な道じゃなきゃ選ばないタイプだよね」
「……そう見えますか」
「昔からそうでしょ。自分の立場、相手の思惑、周りからの反応、選択肢一つ一つの行き着く結果、そのあたりぜーんぶ推測して、損のないものを選んでる」

 言い返せない。

「でも、損をしないだけで得をする訳でもないってことだってあるよねぇ」

 一瞬のうちに、次郎先生に強く腕を引かれて、そのまま彼の上に倒れこむ。ガチャン、と大きな音を立ててパイプ椅子が揺れる。次郎先生の顔が近い。

「隙だらけでどうするの、って言ったよね」
「だって、さっき……」
「困らせたくはない。……けど、自分でも驚くくらいに強欲になってる。俺だけのものになってほしい、なんて」

 息遣いまで聞こえる距離で「名前」と名前を呼ばれて呼吸を忘れてしまう。抵抗だって出来た。どうしたらいいか分からなかった。優しく頬を撫でられて、「諦めるから、嫌だったら突き放して」なんて言われたら胸の中がぐちゃぐちゃに掻き乱される。もう戻れない。
 上唇が触れて、ゆっくりと唇同士が重なる。強引だったくせに、口付けはこんなに柔らかくて優しい。

「全部捨てて、とは言わないから。俺が受け止めるから。……名前、全部抱えたまま俺のところに来てほしい」

 最後の、私の感情を堰き止めていた糸が切れた。ぼたぼたと零れ落ちた涙が、次郎先生の服に染み込む。

「なんで、どうして。ほしい言葉全部持ってるの。本当に、ホントにずるい。私、こんなに悩んでたのに」
「うん」
「苦しいよ、せんせい。……っ、好き。好きです、好き。もう苦しい……」
「俺も名前のこと好きだよ。好きって言ってくれて、ありがとう」

 ついに声を上げて泣き出した私を、次郎先生は優しく抱きしめてくれる。
 まだ、ハッピーエンドにはなれない。先は見えず分からない。次郎先生に言われた通り、私が今まで避けてきた道だ。それでも、一人で歩む道ではない。

「不甲斐ないところもあるし、多分これからもちょっと頼りないおじさんでしかないと思うんだけどさ。……いっぱい名前のこと好きでいるから」
「……ふふ、それはプロポーズですか」
「お、笑った。プロポーズかあ……、それはまた別の機会にするけど。でも、俺のプロデューサーちゃんで、恋人だ。公私ともに、これからもよろしくね」

運命のはんぶんこ


title by /Until this love finishes