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現世も霞む美しい月夜の晩には、したたかな盗み人が必ずやってきて、宝石よりもっと、価値をつけられない可憐な貴女の心を奪い去るため、あらゆる手段を選ばないでしょう。

月映えの恩恵は断り、闇に身を隠しなさい。そんな言い聞かせが幼い頃に読んでもらったご本の中にありました。あぁどうして、他愛無いおとぎ話を思い出すくらいに、今宵の月はあまりに完全だったのです。

華やかな舞踏会から少し離れた、閑散とした城の石の通路から一人、私は秋の夜空を見上げていました。今夜は、月の光が明る過ぎるのでしょうか、星の光は失われて、ただただ眩しい満月の独壇場さながら、降り注ぐ強烈な白が現世を照らすのです。少し離れた場所では、今流行りの仮面舞踏会(マスカレード)が0時を過ぎてもまだ賑わいを見せているようで、煌びやかに仮装した上流階級の者達の笑い声がよく聞こえてきます。皆さんは、私に、とても良くしてくれます。ただ、私はああいった華やかな社交場は些か苦手かもしれません。この国に嫁ぐはずの他国の王妃が何を言っているのかと笑われてしまいそうで、だからこんなところで一人、許された束の間に物思いに空を見上げているのかもしれません。

夜の帳が下りて、夢の景色に微睡む今宵、朧げなまま何処かに連れ去られてしまいそうになる。月の歪みない円かな様に瞬きも忘れ、立ち尽くしてから一体どれくらい経ったのでしょう。優しい夜風がドレスの裾をふわりと浮かした途端、後ろから引き留めるように呼ばれた私の名前に漸く、はっとして我に返ります。

「名前!探したよ。どうしたんだい?こんなところで空なんか眺めて」
「あっ、精市さ…、せ、精市」
「ふふ、舞踏会に飽きてしまったかな…まぁ、気持ちわからなくもないけど。俺はね、飽きたよ」

マスカレードの仮面の装いのままやれやれと笑って此方に歩みを進めるのは、この国の第一王子にして私の婚約者の精市さんです。(前に彼の要望で「さん付け」は禁止されてしまいました。少し恥ずかしいですが…)王室同士の体裁と堅苦しい交渉が大前提の、個々の意思は二の次とされるこのような難しい時代に、私はとても恵まれていました。私は精市を心から愛しているし、彼もまた私を心から愛してくれたのです。

大半の事が私の知らない場所で確約されてきた人生の中で、私にとってそれは奇跡にも近い出来事でした。

「…っ…あ、あの」

愛する彼を前にうまく言葉が浮かばないのは、つたなく、うぶな恋のせいなのです。外したままで手持ち無沙汰な仮面を、胸の前でもじもじと弄りながら、熱い頬を隠すように俯きます。あぁ、今日は夜風が少し、冷たくてよかった。

「…精市、ごめんなさい。でも、ちがうの…見て。今日は月がとても綺麗で」
「あぁ、本当だ。確かに綺麗だね」
「うんっ…」
「ふふ、けれど肌寒いしこのままだと君が風邪を引いてしまいそうで、それが心配だ」
「は、はい。あの…ごめんなさい」

口元でふ、と笑む精市の顔の陰影が月明かりでより濃くなっていきます。

それから彼はおもむろに己の仮面に手を掛け、その下に隠した素顔を見せてくれました。露わにする美青年と呼ぶに相応しい整った目鼻立ちの、一途過ぎるその眼差しに心が射抜かれてしまいそう。漆黒の長い睫毛の下、彼の海のように蒼い瞳は、見る度に深みを増していくのです。例えるなら自ら、視界の悪い深海に潜っていくような……彼がマントを翻し此方に一歩踏み出すと同時に、私に瞬きの隙も与えないまま、腰に回した片手でいとも簡単に身体を引き寄せました。

情緒ある二つのシルエットが重なるのにそう時間は要りません。私の体重を難なく片腕で支えながら、彼は至近距離から続けます。

「残念ながら俺には、月よりも君の方が綺麗だ。独占するために、こうして生涯、捕まえておかなければ…」

囁いた言葉は、何処か、感情を置き去りにした独り言のようにも聞こえました。そうした胸のざわめきにすかさず蓋をするように、ゆっくりと彼の親指が私の唇をなぞります。大人しく彼の手中に収まる私の姿に満足そうに目を細めた精市は、くい、と掌を私の顎に添えてから不敵に此方を見据え、言葉を続けました。

「いい子だ。誰にも渡さない、何者からも傷付けさせないと誓うよ。この俺とずっと幸せに暮らそう」
「…んっ…はぁ」
「愛してる、俺だけの可愛い名前…ん」

瞬間、重なった唇の隙間からぬるりと差し込まれた舌に咥内を蹂躙されるには些か、いつ人が通るかもわからないこの場所は危険過ぎるのだと、頭ではわかっていても抵抗できません。

夜の営みを彷彿とさせるような彼の濃厚な口付けにひしひしと背徳を感じつつ、迫り来る興奮に瞼をひくつかせて受け入れます。角度を変えた執拗な愛撫と、何度も抱き竦められる温もりに、いつしか身体が後戻りできそうにない熱を持て余していました。縋るような視線に気付いた精市は、一度唇を離してから、怪しくも挑発的な瞳で微笑み返します。

「だめだよ名前…俺を誘ってる?」
「いえ、さっ…!誘ってない…です」
「へぇ、そう。ならその誘ってる顔は無自覚なのかい…」

彼は暫し思考した後、名残惜しげな唇へのライトキスを最後に私を拘束する腕をそっと解きました。それから、外していた目元を覆う仮面を気怠げに着け直します。
身形を整えて息をつく王子様の傍ら、熱に浮かされた感覚に困惑するお姫様は、思わず欲しいものに手を伸ばしていました。彼の背中を覆うマントを力無く握っては小さく寄り添い、せめてあと少しだけと、切な気持ちで願うことだけで今は精一杯なのです。想うばかりに心が張り裂けそう。

「…君は先に部屋に戻っておいで。退屈なマスカレードは早々にお開きだ」
「…え?で、でも」
「言っただろ?俺が散々、飽きてたんだ。それに今夜は、今すぐ君を抱きたい」

そう言って私の手を取る精市は、静かに目を閉じ、左手の薬指の付け根に優しく口付けを落としました。未だ天上の満月は衰えず、眩しい光に曝されながら愛する人の愛に陶酔する私は、第三者の視線に気付けなかったのです。それは頭上に輝く月でもなく、眼下に揺れる遅れ咲のグラジオラスの花でもなく、仮面をつけた大勢に紛れた内の一人の強欲な視線でした。

『現世も霞む美しい月夜の晩には、したたかな盗み人が必ずやってきて、宝石よりもっと、価値をつけられない可憐な貴女の心を奪い去るため、あらゆる手段を選ばないでしょう。』

「…くす、だって、僕の付け入る隙だらけだ」


end.
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次は不二先輩の番