※マスカレード不二先輩
※特殊設定


僕がマスカレードの装いで貴族に扮して、わざわざこの華々しい舞踏会に潜り込んだのには訳がある。

国家直属の隠密として働いている僕は、国王の命を受け日々暗躍を繰り返しているわけだが、今回はその一環でスパイとして他国の偵察を任されたのだ。話を掻い摘むが、今回の王子、王女の婚約はつまり、世界の勢力図を覆すほど躍進的な出来事であった。それはプラスも生むが、マイナスを生むこともある。祖国に直接的な悪影響は見たらないとはいえ、国王は万が一を憂い、僕に婚前の偵察を申し付けた。だが恐らく他国のスパイは僕だけではないだろう。何せ舞踏会場にしては、やたら僕と同じ匂いをする奴らがうろうろしているのだから、なんて冷めた視点で泥沼の疑似パーティの中、カクテルを一口嗜む。

「…悪いが、少し席を外す。彼女が見当たらないんだ。このまま俺が探しに行く」
「かしこまりました、精市様」

監視中、王子が側近に小声で話し掛けているのを聞いた(聞いたというより、口の動きを見て遠くから判別した)ので、僕は気付かれないよう彼の後を尾ける。全く、相手の一挙一動見逃せない骨の折れる仕事ではあるが、人間観察好きの僕にとっては割と天職かもしれない。いや、もしくは、そんなこともないのか…会場を出た王子は幾つか思い当たる場所を回った後に、外の通路を早足に進んで行く。彼の忙しない足取りは彼女を早く見つけたい気持ちの現れのようで、他人事ながら、まさか、純愛なのかと意外に思えた矢先であった。王子が王女の名前を呼んだから、僕は反射的に物陰に身を潜める。それからあちらの様子を伺おうとそっと覗き見た途端、僕は一瞬目を見開いた。

月下に照らし出された王女のなんと美しいことか。若さ故、可憐で儚く、傲らず、佇む一人の美しい少女がそこにいた。あぁ、あのような、今にも折れてしまいそうな一輪の花に、これから一国の責任を背負わすというのか。ドクンと僕の心臓が跳ね上がる。彼女の純白のドレスに散りばめられた上等な宝石の装飾が煌めく度、言い知れぬ不安に煽られながら、僕は二人のやり取りを黙視し続けた。否、よもや僕が瞳に映すのは王女しかなかった。今は彼女の何もかも見逃したくないと、それだけに夢中になる。

何故だろう。僕は彼女に魅入っているのだ。

「…んっ…はぁ」
「愛してる、俺だけの可愛い名前…ん」

だから二人の濃厚な口付けのシーンには、苛立ちを感じたのも事実だ。見せ付けられているようで、身勝手にも僕の中の何かが許せなかった。

ただの偵察の筈が、申し訳ございません国王様。ですが貴方の不出来な隠密は今、標的の王子に嫉妬し、王子を羨ましく思い、そして傍の王女にただならぬ欲望を見出しています。もしここで彼女を寝取り、僕のものにするのは無理だとしても…この婚約を破棄させ、何事もなかったことにすれば国王の要らぬ憂いも晴れるのではないか。そもそも、そういう汚い仕事は幾度となくやらされてきた。僕は生まれつき見目がいいから、抱いたり抱かれたり、これまでに何人も各国の重役を僕の言いなりにしてきた。

悶々とし、気配を殺して黙考する。こういうシチュエーションには慣れているんだ。僕は人の心ほど信じられないものはなく、陳腐で、価値の無いものはないと思っている。だから僕のさじ加減で、好きなように他人の色を変えるのは簡単だ。あの空に輝く満月とは程遠い、口元に怪しい下弦の月を描いては、密やかにほくそ笑む。

「…くす、だって、僕の付け入る隙だらけだ。名前様…今宵、貴女を頂いてみせます」

それからすぐのことだった。二人の会話に耳をそばだてていた僕にあっさりとチャンスが巡ってきた。王子はあろうことか、無防備な王女をその場に置いたまま、急ぎ足で会場へ戻っていったではないか。僕はすかさず、ポケットに忍ばせている粉状の即効性睡眠薬をハンカチに擦り付けながら、慎重に王女の様子を伺う。月明かりはスポットライトのように彼女の表情を照らし僕に良く見せてくれた。

赤く染まった頬も、可愛らしいんだね。

「…今晩は、お嬢さん。こんなところで、お一人でどうされましたか。パーティには戻られないのですか?」
「えっ!あっ…あの…あの、わ、わたくしは、…えぇ、もう…」
「…そうですか、残念です。僕は今回、初めてマスカレードに参加したのですがね、とても華々しい素敵な会だ。来てみて良かった」

仮面は、身分を隠すためのものだ。辺りに人気がないのを確認してから、仮面をしたまま王女に近付き声を掛けた。一方で、仮面を外していた王女は僕の声を聞いた途端、慌てて自分の仮面をつけ直してから此方に振り返る。初対面の人間にしどろもどろで、若干社交性に欠ける気もするが、考えてみれば名の知れた国の箱入り娘だ。周囲の元、それはそれは大切に育てられて来たのだろう。悟られないように、明るく振舞いながら距離を縮めていく。

「貴女もパーティは初めてですか?僕は勝手がわからず、こんなところまで来てしまいました。お恥ずかしい」
「えっ、…あ、あの、わたくしは…その…」
「あぁ…申し訳ございません。このような会で、レディに多くを語らせるとは不躾でした。どうかお気を悪くせずに…」

話しながら、ポケットに片手を忍ばせ、悪意のない面持ちでにっこりと笑ってみせる。すると僕の態度に安心したのか、ほ、と肩を撫で下して王女が此方を見上げてきた、その瞬間を見逃さなかった。

闇の仕事で手慣れた手付きでハンカチを取り出すと同時に、彼女の腰を引き、瞬時にハンカチで鼻と口元を覆い隠す。洗練されたスピードに悲鳴を上げる間も与えられない彼女は、数秒もしない内に昏睡状態に陥り、僕の腕の中にあっけなく収まってくれた。脱力した彼女の身体の重みを片腕で支えながら、彼女の額にちゅ、と口付けを落とす。

「ほぅら、隙だらけだった」

王女の身体を抱き上げながら辺りを見回す。幸い、事前の下調べで城全体の内部図は頭に入っていた。

二階にいる現在地から近い、今は使われていないはずの旧式の来客用寝室に辿り着くと、ピッキングで手際のよく解錠し物音立てずに中へと入り込んだ。後ろ手にガチャリ、と内鍵を掛けるとゆっくりと歩み、部屋の片隅にある豪勢なベッドに彼女を丁寧に寝かす。それから僕はシルクハットと仮面を外し、次に彼女の仮面を外した。窓辺から差し込む明るい月光が、とてもきれいに彼女の寝顔を僕に見せてくれた。息を呑むほど、青白く照らされた様が陶器のように、美しい。柄にもなく僕などが犯すには勿体無い逸材なのではないかと、一瞬考えが過ぎったけれど、すぐに打ち消した。何せ権力持ちの彼女をものにすれば国王がお喜びになられる。

僕は今、自分の私欲と、国の都合の、完全合理主義で動いているわけだ。逃す手はない。


end.