募る感情は重く、そして恐ろしいほど静かに、気付けば俺の心臓に絡み付いて離れない。

光を失った瞳で打ち返すボールは作業的で、機械的で、どうにも人間味に欠けるなんてことは考えたことさえ無かったけれど、確かに近所のテニスコートで無邪気にラケットを振るう幼い子供たちよりは俺は決定的に何処か異なるようなのだ。否、何処か、だなんて曖昧な言い回しをしなくとも、背負うものの差であるとそんなことは最初からわかりきっている。肩にかけた大きなラケットバッグを背負い直して、ふとコートフェンスの前で足を止めたのは、今にも雨が降り出しそうな嫌な曇天の日のことであった。

「……」

夏だというのに太陽は遮られ視界は薄暗い。午前の雨の名残か湿気を帯びたアスファルトが蒸し暑苦しく、部活帰りの俺は眉根を寄せながらコートの中を睨むように見つめていた。パコーン、パコーンとボールを打ち返す音を周囲に軽快に鳴り響かせ、右に左に、コートのベースライン上で覚束ないラリーを続ける小学生はスクールの子達だろうか?全国決勝を間近に控えた連日の厳しい練習で疲れた俺の瞼はとっくに重い。ぼんやりと見つめていた。特に何を思うでもなく、頼りないボールの行き来をぼんやりと見つめていたんだ。

強さなんてものからは程遠いそれは、俺からすればとても、とても危うく、心許ない。

「…そんなことでは、勝てないだろ……」

パコーン、パコーン。

無意識に唇を動かして紡がれた言葉はあまりにも切実で、それでいて全く、たかだか小学生の遊びに対する感想とは思えないほどに滑稽じゃないか。知ってるか?全勝、常勝、無敗にして最強の王者はその身を擦り減らしてやっと地位を得る。生半可にテニスを楽しむ余地など一切ないし、そんなヌルいテニスをしているようではこの先は無い。

死んだような目で暫くスクールの練習を見ていたけれど、ポツリポツリと降り出した雨にやがてコートからは誰もいなくなってしまった。

「……」

ザアアア…

雨足は急速に加速して、大粒の雨が激しく地面を打ち付ける。ゲリラ豪雨に髪も制服もびしょ濡れだ。冷たいし、この大事な時期に風邪を引いてしまうかもしれない。鞄にしまってある折り畳み傘を取り出して早く家に帰った方がいいのかもしれない。それでもこんな雨の中でコートフェンスの前から動くことが出来なかったのは、動く気力がすっかり身体から抜け落ちていたからだった。

俺は一体どうしてしまったのだろう。脱力して神聖なテニスコートを前に無言で俯けば、滴り落ちる水滴が髪の毛先に弾かれて宙を舞う。

「……」

心は、空っぽだ。

「…勝てばいい。それだけの話だろ…結果が全ての世界に、結果以外の何を求めろというんだ……」

譫言のように呟いた言葉は、少なくとも俺の中で間違いなく正論だ。試合は勝利のための儀式に過ぎない、勝って勝ち続けてまた勝ってのスタイルを選んだことを悔いるつもりなど一切ない。今年も全国制覇を必ず獲りに行く、揺るがない決意はやがて実力となって顕著に表に出ることだろう。

ああ、だから立ち止まることの許されない日々の中で、こんなにも前に進むのが億劫な日には、出来れば君に会いたくなかったよ。名前。

「精市」

そっと優しく後ろから名前を呼ばれたら、降りしきる雨が突然ぴたりと止んだ。小さく肩を震わせて見上げた視線の先、いつの間にか頭上いっぱいに広がったピンクの水玉模様が俺の視覚を一瞬にして奪っていく。零点コンマ、呼吸を忘れ、苦しみから遮断された守られた世界の中でただただ鮮やかな空を一人、見上げていた。

それから力無く後ろに振り返ると、俺のために傘を差し出している彼女が雨に打たれながら此方を見上げているではないか。名前、どうして此処に?段々と覚醒する意識の中で、儚げに微笑む君を今すぐ抱き締めてあげたいけれど、助けられているのは俺の方なのだ。

「…ッ……名前…君、なんで」
「今日の精市が少し心配だったから、ちょっとだけ見に来ちゃいました」
「…」
「一人になりたいのかな、と思ったんだけど…でも、来てよかった。一緒に帰ろう?」
「…名前、…わかったから…君が傘をさしてくれないか。びしょ濡れじゃないか。これ以上濡れたら風邪を引いてしまう」
「そうしたら、今度は精市が濡れちゃうよ」
「俺は俺の傘があるんだ。大丈夫、ほら、見て」

ぐいっと名前が握る傘の柄を押し退けて半ば強引に彼女にささせると、俺は慌ててラケットバッグから自分の傘を取り出して頭上に広げて見せる。そうして手に持つそれを軽く左右に揺らして示しながら笑い掛けた。

「ね、大丈夫だろ?」
「…ふふ。そうだね、大丈夫そう。でも、大丈夫じゃない時は、また傘を持ってくるね」

あれ。

「だってほら、精市は、雨の日に傘を忘れがちだから」

いつもより大人びた彼女の笑顔を前に、咄嗟に取り繕ったはずの歪な笑顔を伏せて、次に滲み出る気持ちはどうして。唇を噛み締めて無言になったのは言葉を選んでいたからじゃない。ただ、ただ君が。

孤独に囚われがちな俺を、いつも放って置かないから。

「…ありがとう。助かるよ」

絞り出した俺の声は少しだけ震えていた。雨上がりは近い。


end.
−−−−−
幸せになって欲しい二人の溶解温度