月に吠える

「おいで、小狐丸」
名前の柔らかに響く声が名を呼べば、その名の持ち主は吸い込まれるように彼女の膝元へと滑り込んだ。
「ぬしさま」
「いい子ね、本当にいい子」
さらり、と白銀の毛並みを撫で付ける名前の手の優しさに、小狐丸は心地良さげに目を細めながら膝に頭を預け、彼女の細い腰に腕を巻き付ける。毛の一本一本を指に絡ませ、その感触を楽しむ名前は穏やかに笑っていた。そんな彼女の顔を見上げると、小狐丸も心底嬉しそうに頬を緩めるのだ。愛しい相手の香りを胸いっぱいに吸い込み、穏やかな手付きで自慢の毛並みを整えてもらうこの時間が小狐丸にとっての至福の時間だった。
なのに。

「主」
「…三日月」
「随分と重たそうな毛玉が纏わり付いているな」

はっは、と軽快な笑い声で、この愛しい時間に踏み込んで来たのは三日月だ。相も変わらず飄々とした口振りではあるが、注がれるその視線には隠す気もない刺々しさを孕んだまま。身体を貫かんばかりに突き刺すその視線。
だが、小狐丸は意にも介さず名前の膝から退こうとはしなかった。
「誰が毛玉じゃ。ぬしさまは御前なぞ御呼びでないぞ」
「はっは。獣の嫉妬とはまた愉快」
まさに火花飛び交う視線同士のぶつかり合い。小狐丸の柘榴色の双眸は怒りの火を隠そうともせずに燃え上がり、対する三日月の瞳にはその熱を蔑むような冷ややかな輝きがちらついていた。
「小狐、三日月、やめなさい」
一触即発のその空気を打ち破ったのは名前の牽制の言葉だ。
そのまま瞬きをすることも忘れて互いに牽制し合う二振りの間に、戒めるような響きを孕んだ彼女の声が通る。小狐丸に至っては、名前の言葉こそが全てだ。一歩先に三日月から視線を外し、さあ褒めてくれと言わんばかりに期待を込めた顔を彼女に向けたが、返って来たのは少しばかり罰が悪そうな曖昧な笑みだった。
「小狐丸、ごめんね」
「…ぬしさま…」
名前は申し訳なさそうに毛並を今一度ひと撫でした後、膝から頭を退かして立ち上がる。そのまま、片手を広げて彼女を迎えた三日月の懐へと吸い込まれて行く名前に行かないでくれ、などと言える訳がない。それでも名残惜しさと何とも言えない敗北感で悔しさが込み上げる小狐丸の目には、名前をその腕の中に迎え入れて勝ち誇ったような笑みを見せる三日月の姿が映った。
「では行こうか、主」
名前の腰に手を添え、有無を言わせぬ形で寄り添う三日月の肩越しに一瞬振り返った彼女の表情は、何処か悲しげで。そんな彼女を奪い取る事すら出来ない己の非力さが憎い。たった一人、愛しき相手をこの腕に取り戻す事が出来ない非力さが。
ギリ、と噛み締めた唇から溢れた小さな唸り。
三日月に攫われた名前の耳に、その想いが届く事はなかった。

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