ご褒美をください

「ご褒美にはぬしさまと二人きりで湯浴みを」
そうねだられた時点で断っておけばよかった。後悔してももう遅いのは十分承知の上だったが、それでも先程から頭をぐるぐると巡る過去の自分への罵倒は尽きることはない。そもそもそれをねだられたのは締め切り間近の書類に追われてまさに目も回るような忙しさに追われていた時で。そんな状態で背中にべったりと張り付かれ、ぬしさまぬしさま、と延々ぼやかれていた結果、遂に二つ返事で許可してしまったのだ。いや、今考えるとそれすら彼の作戦の内だったのかも知れない、と考えれば考えるほど頭がこんがらがってしまいそうだ。
冷静に、冷静にと考えれば考えるほど気持ちに反して鼓動は早くなる一方で、たった一枚の扉を隔てた向こうに居る彼にまで脈打つ音が聞こえてしまうのではないかと思う。
薄い扉越しからは小狐丸が動く度に湯船の湯が立てるチャポン、チャポンという水音が漏れて名前の緊張を更に煽った。もう随分と待たせてしまっているような気がして、早くしなければと思いはするがやはりあと一歩がどうしても踏み出せない。タオルを巻いているとはいえ、なんせ明るい場所で肌を晒さなければいけないのだ。勿論、小狐丸と関係を結んでからは何度も体を重ねてきたが、それは灯りを消した真っ暗闇の中でのことで。
「…ああっ、もうっ!」
どうしよう。入るべきか、それともやはり無理だと言うべきか。今ならまだ引き返せる。というか今しか引き返せない!
羞恥心には打ち勝つ事が出来ず、深く息を吸い込んでから声をかけようとしたまさにその瞬間、まるで名前の考えを読み取ったかのように小狐丸の声が彼女の最後の悪足掻きを遮った。
「ぬしさま、あまり待たせられると茹で上がってしまいそうなのですが」
「えっあっえっ!えっ、あっ…い、今すぐいきますから…!」
突然声を掛けられたせいで慌て過ぎた。新たな失態で羞恥心は限界を迎え、思わず目頭が熱くなってしまったが、こうなってはもう覚悟を決めて入るほかなさそうだ。少しでも露出が減るように、体に巻き付けたタオルの裾を下に引っ張りながらそっと扉を開けた。
「…ぉぉおお待たせしましたぁ…」
「脱衣に手間取りましたか?呼んで下さればこの小狐が手伝いに参りましたのに」
「ぅっ…ご、ごめんなさい…」
ちらりと視線を向けた先では小狐丸が乳白色の入浴剤を入れた湯船の中で確かに少し火照ったように見える顔を覗かせている。しかし何よりも名前の意識を奪うのは、彼の濡れた髪、水が滴る首筋や肩。そして日々の鍛錬で鍛え上げられた逞しい肉体だ。
整った顔立ちは火照りから汗が滴り、目が眩むような色香を漂わせて。スッと通った鼻筋に綺麗な二重の瞳、そして何度も重ね合わせた形の良い唇。思わずまじまじと見つめると、その唇に与えられてきた感覚がじんわりと体に蘇ってくるようで顔中に熱が集まって来るのが分かった。
「おや、ぬしさまはもう湯に充てられたのですか?愛いお顔が赤く染まっておりますね」
「っ!!そそそそ染まってません!!!」
「一体"何事"を想像したのですか?」
「〜〜っ!いじわる…っ!」
彼の口振りからして名前の考えなど容易く想像がついているだろうに、それでも敢えて聞いてくる意地の悪さは本当にずるい。しかし名前の素直で純情な反応に気分を良くしたらしく、ぷいとそっぽを向いて拗ねた様子の彼女の腕を軽く引き寄せながら微かに口元を緩めた。
「さあ、ぬしさま。此方へ」
「…でも、まだ洗ってないです」
「逃がしませぬよ」
「あっ、もう…」
せめてもの抵抗に、ぼそりと言い訳を述べてみたもののそれを聞き入れてくれるような男ではない事は分かっている。
半ば予想通り、再度腕を引き寄せられるとそのまま湯船に足を入れた。
「ぬしさま」
「? はい?」
「そちらは」
そのまま腰を沈めようとした瞬間、小狐丸が呼び止めて指摘したのは体に巻き付けられたバスタオル。普通に考えれば湯船に浸かる時はタオルを外す事くらい分かるはずなのだが、名前は本気で分かっていないようで不思議そうに小首を傾げてみせた。
「もしやそれを巻いたまま入るつもりで?」
「…えっ?えっ?!何でですか?!」
「湯に浸かろうという時にそのようなものを身につけたまま入る方などおりませぬ」
「それは小狐丸の常識であって私は昔からお風呂ではタオルを巻い────っきゃあぁああぁあ!!!」
頭をフル回転させて思いつくまま言い訳を並べてみたものの、努力も虚しくタオルは小狐丸の手によって簡単に剥ぎ取られてしまった。照明の下で露わになった胸元を咄嗟に腕で隠しながら勢い良く湯船に浸かると、直後に彼の両脚が名前の体を挟み込み背後から優しく抱き寄せられる。
「いじわるっ…小狐のいじわるぅ…っ」
「おや、泣いてしまわれましたか?」
「怒ってるんですっ!!」
名前にしては珍しく強い口調で言い放ってみたが小狐丸にはさして効果もないようで、返ってきた言葉は「左様でしたか」と悪びれた様子もなく、さり気なく腹部に回された両腕で強く強く抱き締められた。筋肉質な胸板に背中がぴたりと張り付くほどに密着し、彼の唇が首筋へと押し当てられて何度も口付けを落としていく。
これで絆されてはいけないと意識はしてみても、常日頃から溢れる愛情表現をこうして与えてくれる小さな触れ合いは彼女にとって何にも代え難い幸せそのものだ。
髪や首に暖かい唇が触れる度、あらゆる感情が抜け出してただ彼を愛しく想う温もりだけが心を満たしていく。肩越しにそっと振り返ってみると、それを待ち兼ねていたように小狐丸の唇が名前の呼吸を奪っていった。

呼吸すら危ういのは噛み付かんばかりの荒々しく性急な口付けと身体が軋みそうな程の熱い抱擁のせいだろうか。浅い呼吸に身体の火照りも手伝って霞がかったような意識の中、「また精を尽くしますゆえ、ご褒美はこれで」と囁かれた言葉に、名前はただ頷く事しか出来なかった。

return