愛を喰らうケモノ

「かしこまりました。この長谷部にお任せ下さい」
「はい。長谷部がいてくれて本当に助かります」
「有難きお言葉。では、失礼致します」
律儀なまでに深く頭を下げて一礼し、名前の近侍であるへし切長谷部は廊下の奥へと姿を消した。彼が顕現したのはこの本丸が機能し始めてからそう日も経たない頃で、初期刀達と長い年月を苦楽を共にして来た大切な仲間だ。もっとも、名前にとっての彼という存在はそれ以上に特別な感情を向けた相手なのだが。その気持ちに長谷部が気付いてくれるその時を、もう何度夢に見ただろう。今もこうして彼の背中が見えなくなるその時まで熱を孕んだ視線で追ってはみたものの、相も変わらず彼が振り返る事はなかった。
「───……長谷部……」
うわ言のように呟いたその名は、風に運ばれて消えてゆく。そして知らず知らずに唇から漏れ出た溜息に名前が気付いたその時、背後から音もなく伸びて来た逞しい両腕が名前の身体の自由を奪った。片腕はしっかりと腹部を抱え込み、もう片方は名前の口元を覆い隠して声を発する事すら許さない。
「…っ…?!」
「お静かに。誰ぞやに気付かれてしまいますよ」
この声は───そうだ、この身体の芯に響くような低い声も、肩越しに頬に触れる柔らかな髪も、身体を抱き竦めて離さない力強い腕も、知っている。知りすぎている程に。
「何とおいたわしい。あの男はまだ気付かぬ振りを続けているのですね」
小狐丸。彼の唇は名前の耳元に誘われるように擦り寄り、甘く囁く声音が鼓膜を震わせる。これは悪魔の誘惑だ。聞いてはいけない、耳を傾けてはいけない───分かっているのに、身体が拒絶する事を拒んでいるように固まって抵抗出来ないのだ。それも全て見通しているかのように、小狐丸の唇が耳朶を擽りながら緩やかに弧を描いたのが分かった。口元を塞いでいた手はまるで焦らすような速度でゆっくりと上へ滑り、今度は名前の目元を覆い隠して視界から全ての光を奪い去ってゆく。
「…小狐、丸…───」
「この小狐がお慰めして差し上げましょうか。"いつも"のように」
狐の眷属とは何と恐ろしいのだろう。視覚という情報源を奪われ、鋭くなった聴覚で感じ取れるのは小狐丸の声ではなく彼が化けた"長谷部の声"だ。愛しい男と同じ声で優しく愛を囁かれ、身体を拓かれる悦びを知ってしまったあの日から幾度も慰めを求めては後悔とそれまで以上の心を貫く痛みに苛まれていたというのに。それでもこうして偽りの温もりに抱かれ、彼と同じ声で誘惑されるともう逃れられない。
「骨の髄まで愛して差し上げましょう。主命とあらば、ね」
彼の声で、彼の口癖を囁く小狐丸はさながら名前の純情を弄んで楽しむ悪魔───いや、愛を喰らう獣だろう。それでも抗う事を止めた己の狡さに名前の頬を伝う涙は小狐丸の生暖かい舌が拭い去っていく。その感触が身体に教え込まれた悦びの波を呼び寄せて来るのが分かってしまうのだから、人の性とは何と悲しいのだろう。それ以上名前の頭が働く前に、彼女の身体は小狐丸の腕に拐われ人気のない影の中へと消えていった───

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