貴女は腕の中で踊る

「ぬしさま、夕餉をお持ちしました」
木々のさざめきが響くほど静かなこの一室に、小狐丸の声が届く。その部屋の中でただぼんやりとうずくまる名前の了承を得る前に、小狐丸は襖を開けて彼女の元へと夕餉を乗せた盆を運んで来た。名前の反応は、ない。しかしそれに動じる事もなく、彼は慣れた手つきで食事の準備を進めていく。
「本日は金目鯛の煮付けと豆腐の味噌汁を御用意致しました。ぬしさまのお好みに合わせた味付けですよ」
「………」
視線がちらりと向く気配すらない。名前の双眸からは最早輝きすら失われ、焦点の合わない揺らぐ瞳は部屋の天井付近に取り付けられた申し訳程度の小窓に向けられていた。遥か遠くの夜空に輝く散りばめられた星々に、何か思いを馳せるように。
「召し上がられませぬか」
「………」
「人の身は食事を取らねば飢えてしまいます。御身体に障りますゆえ」
促されたところで、ぼんやりと窓を眺めるだけの名前は箸に手を伸ばそうともしない。ただ静かに、その生気のない瞳から幾筋もの涙を流すだけ。月明かりに照らされて音もなく泣いている名前の傍を、小狐丸は離れようとはしなかった。
「───まだ、赦しはもらえませんか」
不意に響いたのは酷く小さい掠れた女の声。小狐丸が名前を見遣れば、彼女は濡れた瞳に相も変わらず煌めく星々を映すだけ。決して自身をこの檻に閉じ込める男に視線を向けようとはしなかった。
「赦す、とは可笑しな事を仰りますね。この小狐がぬしさまに怒りをぶつけると御思いですか」
「───それなら…お願いです、解放して…っ…」
珍しく感情に任せて名前が身を捩ったその瞬間、ジャラッと重たい金属が奏でる音が響く。部屋の隅から伸びた鎖が名前の足首に絡まり、彼女が動くたびにその不快な金属音を立てるのだ。恐らく小狐丸の霊力が込められており、名前の力では外す事も出来ない。それはこの檻のような一室で、翼をもがれた小鳥のように彼に飼い殺される事を意味していた。
「もういっそ───…殺してください…───」
それだけがこの狂った愛情からの解放を意味すると知っていた。だからこそ死を乞う名前の瞳には涙の湖に浮かぶ夜空の星々達が煌めく。小狐丸はその淡い輝きすらも己の手に閉じ込めるように名前の目元を覆い隠すと、空いた片腕で甘い抱擁を与えながら陶酔にも似た蕩けた低音で囁いた。

「貴女様はこの小狐の腕の中で踊るのです。永遠に───」

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