楽園への監禁状

「ほら、泣くな泣くな。可愛い顔が台無しになってしまうぞ」
はらはらと涙を流す名前の頬を拭う三日月の手付きは酷く優しい。まるで触れれば壊れてしまう硝子細工を扱うように、名前の柔らかな肌をそっと撫で上げるのだ。その指先は緩やかに涙の筋を拭い上げ、まだ眦に残る暖かい雫をそっと救う。
するとその跡を追うように彼女の肌にはぬめついた液体が綺麗に映えた。
「ああ…汚れが付いてしまったな、すまない」
「…っ、…!」
三日月の言う"汚れ”が何を指すのかを瞬時に察した名前は、声を詰まらせながらもう一筋涙の雫を溢して頬を濡らした。それを飽きる事なく穏やかに笑いながら拭い取る三日月の手は、鮮やかな朱色に染まっている。
朱。赤。紅。
返り血で真っ赤に染め上げられた三日月の手はそのまま名前の後頭部を優しく撫でながら引き寄せ、はらはらと溢れて止まらない涙の筋をねっとりと舐め上げた。
「ふむ。名前の涙は甘美な味がする」
「…み、か…づき…っ」
「宗近だ」
そう呼べと言ったはずだ、と耳元で囁かれた声は甘く優しい響きだと言うのに。肌に触れる舌は燃えるような熱を孕み、美しく弧を描く唇から漏れる吐息は明らかに情欲の炎を灯していた。獣が戯れに小さな命を弄ぶかのようなその動き。名前の身体は恐怖に支配され、凍り付いた背は三日月によって拘束された腕のせいで満足に身動きすら取れない状態にされてしまっている。

何が彼を狂わせてしまったのか分からない。いつもと変わらぬ日常がいつもと同じように繰り返されていくはずだった。
平凡で、穏やかで、笑って過ごすいつもの日常が。
「もう泣くな、お前が泣くと空まで悲しんでしまうぞ」
三日月の言葉通り、外からはポツポツと雨の粒が地面を叩く音が響いてきた。名前の霊力によって保たれているこの本丸は、環境の全てが彼女の精神に左右されるのだ。名前が笑えば穏やかな日差しが降り注ぎ、悲しむ時にはその身に寄り添うような静かな雨が落ちてくる。
身動きの取れないまま名前は視線だけを空に向けると、そこには赤黒い雲が立ち込めて稲妻が絶え間なく光り始めていた。
この雨が、彼のこの狂気を洗い流してくれればいいのに。
何の前触れもなく、本当に唐突に、本丸の刀剣達を次々と斬り伏せた三日月。重傷の体で名前を蔵に押しやり、外から結界を張って文字通り命懸けで彼女を守ろうとしたあの刀剣達の安否はもう分からない。
一振り一振り、まるで野原の花を手折るように破壊されていく彼等を救うことが出来なかった。後悔と恐怖に支配され、暗く湿った蔵の中で怯えながら助けを待つ名前を迎えにやって来た三日月の狂気。それはもう、一人の人間に手に負える代物ではないことは明々白々であった。
「もう此処には俺とお前しか居ない。邪魔する者は何もない。なんて幸せなのだろうな、なぁ名前」
「───おね、がい……離して…」
その願いが聞き届けられるとは思えなかった。それでも無意識に口にした名前の望みに、一柱の神は柔らかく目を細めた。
「それは聞けぬ頼みだな」
普段と寸分変わらぬ穏やかな微笑み。
それでも彼は名前の知る三日月ではない。決して、あの三日月ではないのだ。
「解放などしてやるものか」
ようやっと手に入れたのだから。
そう聞こえた気がしたが、それももう定かではない。諦観と恐怖で埋め尽くされた名前の思考はもう、正常に働く事を放棄していた。最後の涙が一筋、頬を伝うと同時、力強く抱き寄せる三日月の腕の中で名前は静かに瞼を下ろす。
もう何も解らない。
ぐったりと力の抜けた名前の身体をその腕で拘束しながら、三日月は心底満足げに笑みを浮かべて優しく優しく柔らかな口付けを降り注いだ。

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