寄り添う吐息に溺れる

疲れた。本当に疲れた。
山盛りの書類を前にして、今日何度目かの溜め息を吐く。書けども書けども終わらない報告書に睨みを効かせたところで、勝手に処理されてくれる訳がないのは分かっているけど。こういうとき、やんごとなき血筋の霊力フルパワー系審神者なら神通力とか超能力とか色々使って一気に終わらせられたのかなあ、なんて思ったり。平々凡々の能力しかない一般社会出身の私のような審神者は、こうして何日も机にかじりつきながら一枚一枚こなしていくしか道はなかった。
「おや?主、随分と険しい顔をしているねえ」
「っっっ!!!」
ひたすら利き手で筆を動かしながら書類とにらめっこしていたせいか、すぐ隣から聞こえた声に心底驚いて思わず息を飲んでしまった。
咄嗟に振り向くと、そこにはのほほんと笑いながらこちらを覗き込む髭切の姿。いつからそこに居たのかと聞くと、彼は「そんなに時間は経っていないよ。何度か外から呼んだんだけどなあ。返事がなかったから」と、暗にわたしの許可なく部屋に入ってきたことを悪びれもせず告げてきた。
「それよりほら、ここ。力を抜いてごらんよ」
「へ、」
ここ、と言いながら何の前触れもなく目の前に伸びてきた髭切の手に、反射的に目をつぶってしまう。それとほぼ同じ瞬間に、とん、と額に軽い衝撃が走った。どうやら髭切の言う「ここ」とは、私の眉間のことらしい。
「あ、…眉間にシワ、寄ってましたか」
「うん、かなり」
「あ、あは、お恥ずかし…」
どうやら私は、部屋の外から呼んでいたらしい髭切の声にも気付かないほど集中し過ぎていた上に、それはまあ随分と深い縦ジワを眉間に刻んでいたようだ。髭切にこんな顔を見られてしまうなんて面目ないなあ、もう。
照れ隠し半分、情けなさ半分で空笑いを漏らすと、まだ私の額に引っ付いたままの髭切の指がぐりぐりと眉間を揉みほぐすように動く。
「こんな皺を作ってしまうほど忙しいのかい?」
「ええ、まあ、ちょっと」
「それにしても、主は働きすぎだと思うけどなあ」
心配、してくれているのだろうか。眉間の凝りをほぐしてくれた髭切の手が今度はわたしの両頬を包み込み、親指の腹でこめかみをぐにぐにと揉みほぐしてくれる。ああ、最高に気持ちいい。髭切の肌の温もりと、強すぎず弱すぎない力加減でのマッサージは私の体の凝りだけではなく心の凝りまで取り除いてくれるのだからあっぱれだ。
とはいえ働きすぎ、とは言われても、やらなければいけない事は山ほどある。この本丸では基本的に私の仕事は私自身が担うことにしているので、後回しにすればするだけ後から自分に返ってくるのだ。初期刀の加州には「近侍に手伝わせればいいじゃん!俺なら近侍じゃなくても手伝うし!」と常々言われているのだが、此度の戦争で実際に敵と刃を交え、命懸けで戦ってくれる刀剣達には出来るだけ余計な負担はかけたくない。結界に守られた本丸という安全地帯からしか戦争に参加できないのだから、書類仕事くらい私一人でこなせなくてどうする。
「ほらほら。また眉間にシワが寄っているよ」
「ああ、もうこれはほとんど癖なので…」
どうやら物思いに耽っている間にまた眉間のシワが再発したらしい。気にしないで、と告げようとすると、開きかけた口は髭切の「主」という呼びかけに止められた。
「"忙しい"の"忙"って、どう書くか知ってるかい?」
「……、は?」
「これは僕の弟の、えーと、何だっけな。物知り丸が言ってたんだけど」
「物知り丸」
「"心"を"亡くす"と書いて"忙"と書くんだよ。仕事ももちろん大切だけど、忙しさにかまけて心を亡くさないことが大前提じゃないかい?君は僕達の大事な主なんだから」
なるほど、言われてみれば妙にすんなりと心に染み渡ってくる。髭切の優しさ、思いやり。暖かい日差しのような心地よさを感じて、何だか肩の荷が下りた気がすると同時に私の両目から一気に涙が溢れ出てきた。
「えっ、あっ、あれ、あれっ」
「うんうん、いい子いい子。よく頑張ったね、えらいえらい」
「あ、これ、止まんなっ、」
「うんうん、よしよし」
堰を切ったように次から次へと流れ落ちて行く雫。止めようと思っても、一旦流れ始めたものはそう簡単には止められない。涙のダムを決壊させた髭切は、ひたすら片手で私の頭を撫でながら、もう片方の手で涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃになった顔を本当に優しい手つきで拭ってくれた。ついでにお鼻ちーんもしてくれた。
「一人でよく頑張ったね。主には僕から誉をあげる」
「ぅえ、ほま、」
「うんうん。そうだなあ、誉を取ったご褒美にさ、何かしてほしいことはあるかい?」
部屋のティッシュが空になるまで使った挙句、それでもまだ止まらない涙で髭切のジャージの袖を犠牲にしてからようやく少し落ち着きを取り戻した私に、髭切はとても優しげな眼差しを向けて問いかけた。
「僕に出来ることに限るけど」と付け加えられた言葉。ここまで恥を晒したのだから、今更どうにでもなれ、と更に恥の上塗りを覚悟して私は一つ願いを告げる。
「あの、よければ、あの…膝枕を、してもらえませんか」
言ってみたはいいものの、髭切の反応を見てみるとじわじわと後悔が浮かんできた。膝枕?僕が?してあげる側?とでも言いたいのだろうか?ぽかんとした表情で首を傾げたかと思うと。
「ありゃ?眠たいのかい?」
と、どこか的外れな答えが返ってきた。
眠たい、という訳ではなく、ただ無性に甘えたくなっただけ、と白状できる勢いはもうない。さんざん泣き散らして子供のように宥めてもらってから、時間が経つにつれて冷静さが戻り始めてくると「何やってんだろう私」感が徐々に強くなってくる。やっぱり前言撤回しよう、そう思って顔を上げた瞬間、私の腕は優しくも力強い手に引き寄せられてそのまま髭切の膝の上に頭を預ける形に倒れ込んだ。
「よしよし、おいで。千年も刀やってるけど、枕になるのは初めてだなあ。痛くないかい?主」
柔らかい、とは言えないけれど、それでも温かくて落ち着く髭切の膝元。そこに頭を預けたまま体勢の微調整をすると、あら不思議。心底から心地が良いと感じられた。
大泣きの後で見事に腫れぼったくなった瞼は重く、自然と落ちてくる。それに気付いたのか、髭切はわたしの目元に片手を優しく覆い被せて、もう片方の手は柔らかな手つきで髪を撫でてくれた。
「少し眠るといい。後でちゃんと起こしてあげるよ」
私は、心のどこかでこんな風に誰かに甘やかされることを望んでいたのかもしれない。その証拠に、今まで感じたことのないような深い安らぎが体を満たしていた。
ふわふわと心地良い夢と現実の狭間で、意識が薄れていく中、髭切の優しい声が「もう頑張らなくても良いんだよ」と囁いてくれた気がした。

お題は刀剣男士に膝枕頼んだったー様からお借りしました

審神者「膝枕して!」
髭切は「ありゃ?眠たいのかい?」と言いながら隣に座り、「さぁ、おいで。…いやぁ、千年も刀やってるけど枕になるのは初めてだなぁ」と楽しそうに膝枕してくれました。


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