※前回の貴音のふんわり続き 世界線は違う
如月千早にとっての唯一の娯楽は、この古びたラジオを聴くことだった。
「あの日」を経て、もはや滅びが避けられないと分かってしまった世界は、少しずつ停滞していく。物資もそう簡単には手に入らない世界では、娯楽に逃げることもそう簡単にはできないことだったから、人々はただ無気力に日々が過ぎるのを、終焉が訪れるのを待っている。
こっそりと人気のない階段に腰掛けて、千早は今日もラジオをつける。ザザ……、と、ノイズまみれの音が弱々しくスピーカーから流れ出た。もちろんまともなラジオ番組などとうに存在しないから、千早はいつも、ラジオを聴く大部分の時間をこのノイズで消費していた。無駄な時間だ、と称されても仕方のない過ごしかただ。本当にごく稀に何かの音を拾うことはあるが、それはどこの誰ともわからない人々の嘆き、不満、そうでなくてもただの会話がいいところであった。
ではなぜ千早がラジオをつけることをやめなかったのかと言えば、それはひとえに、彼女が「不確定なこと」に飢えていたからであった。単調で面白みのない、真綿で首を絞められているかのような日々の中で、このラジオだけが千早に期待という感情の動きをもたらすものだったのだ。
気晴らしにチューナーを弄って、ラジオを階段の上、地上の方に掲げてみる。ザザザ、とノイズがぶれ、そしていつものように少し音を変えたまま静止する。……はずだった。
「……?」
千早は思わず抱えていたラジオをまじまじと覗き込んだ。……声が、聴こえる。それだけではなく、微かに、途切れ途切れだが、これは、まさか、もしかして──
何かに急かされるようにしてチューナーをその声に合わせようとする。元々機械音痴な上に、今までこうして特定の音を拾おうとしたことがほとんどなかったから、……いや、それだけではない。如月千早は今まさに、これまでの人生で一番の興奮を経験していた。楽しみで、待ちきれない気持ち……期待に震える手がうまく動かないことに焦りながら、千早は必死にその声を聴こうとした。そして、
「あ……」
歌が、聴こえた。ノイズこそかかっているものの、確かにラジオからは歌声が流れていた。千早は身を乗り出したまま、少しでもその声を聞き取ろうと耳をすませる。まだ若い、ともすれば少女と称されそうな年頃に聴こえる歌声は、千早の知らない歌を歌っていた。時にはひそやかに囁くように、時にはいきいきと可愛らしく。……千早には、あまりにも楽しそうに、そして嬉しそうに歌う、ラジオの向こうの少女が少し羨ましくすら思えた。
他人の歌を聴くなんていつぶりだろう、と、美しい歌に耳を傾けながら考える。ずっと幼い頃は、よく歌を歌っていたものだが……それも、唯一の観客である弟が死んでから、出来なくなってしまった。もちろん心情的にもだが、それよりも、周囲が千早に静寂を求めたのが何よりの理由だった。地下の閉塞的な環境で、滅びを待ちながら死んだように生きている人々の耳にとって、あの頃の千早の歌声は高すぎたのだ。
ラジオからの少女の歌は、また別のものに移ったようだった。その頃には千早はすっかり夢中になって、そのアカペラに聞き惚れていた。途切れ途切れで、音質もお世辞にも良いとは言えなかったけれど。それでもこの、顔も名前も知らない少女の歌は千早にとって、これ以上ないほどに素晴らしいものであったのだ。
歌い終わると、少女は上品な声音で「ありがとうございました」とだけ言って、そしてどうやらそこで放送は終わってしまったらしい。千早はそれがどうしてもさみしくて……そして、さみしいと感じている自分が、くすぐったくてたまらなかった。
ああ、歌いたい。千早はボロボロのラジオを抱きしめながらそんなことを思った。背にしたコンクリートの壁だけがそっと、ラジオから流れ出た少女の歌声の残響を残し続けていた。