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 俺が満谷晴に初めて会ったのは、ある雨の降る日のことだった。その日出た宿題が、授業で取り扱った題材について本を読んでまとめて感想を書くといったものだったので、どうしても本を借りる必要があったのだ。宿題は後回しにしてギリギリに手をつけるのが俺の常なのだが、雨のせいで部活が休みになったので、仕方ないからクラスメイトに本を借りられてしまう前に行ってやるか、という気持ちで、入学以来ほとんど全く足を踏み入れたことがなかった図書室の扉を渋々開けた。そうしたら、そこに満谷晴がいた。図書室の一番奥の机、その窓側の端から二番目の席で、頬杖をついて、分厚い本をぺらりぺらりとめくっていた。そのことに俺がすぐ気がついたのは、このうんざりするような天気のせいなのか時間のせいなのか、はたまたこの学校の図書室の利用人数自体の問題なのか、図書室に人が満谷以外いなかったからだった。……いや、それだけではない。入口からぐるりと部屋全体を見渡した時にはっと目に入ってくるような不思議な雰囲気を、満谷は纏っていた。遠くからでも、漆黒の髪が白い肌を引き立たせるように顔のそばを伝っているのが分かる。こちらの存在に気づいているのかいないのか、顔を上げる様子がなかったから、俺は少しの間満谷をじっと見た。窓の外の曇天と、分厚い本と、気だるげな黒髪の女子生徒。正直、ものすごく絵になっていた。不気味なほどに。
 それで満谷に興味を惹かれたのと、図書室に足を踏み入れて書架を横から見ても結局他に誰1人として姿が見当たらなかったから、俺は満谷の向かいに足を進めることにしたのだった。

「なあ」
「……」満谷はまばたきを一つして、顔を少しだけ上げて言った。「見ない顔だね、どうしたんだい」

 涼しげに整った顔のせいか、口調のせいか、奇妙な圧がある奴だと思った。黒い目が俺をじっと見つめる。……この時点で、俺は満谷がまあまあな勢いで変人であることを理解したのだが、結局本を借りるために来たのだから司書の不在の理由を確かめるくらいはしても良いと思って、話を続けた。

「あのさ、司書の人いなくね?俺、本借りたいんだけど」
「ああ……。彼女なら、あと30分ほどで戻ってくるんじゃないかな」
「30分?」

 思わず大袈裟に語尾が上がる。一刻も早く本を借りて、それから家に帰りたかった。いや、帰ったからと言って、何か用事があるわけではなかったが、あまり気の進まない作業にそんなに時間を取られてニコニコしていられるほど気は長くないつもりだった。

「困るんだけど」
「まあ……、私が貸し出しに必要な手順を知っているから、手を貸してあげても良いよ」

 俺の反応が露骨すぎたのだろうか、満谷はすっと目を細めるようにして、薄く笑った。「そもそも君、何を借りるかは決めているのかい」馬鹿にされている気がして顔をしかめそうになる。それに、やっぱりふざけた口調だ。しかしこと満谷に関して言えば、なんだかこの芝居のかった話し方が似合ってしまっていたから、俺はひくりと目をすがめた後に、穏当な返事をした。

「あー? まあ、決めてないけどよ。なんとかなるだろ、勘で」
「場合によるだろう。君は、純粋に本が読みたくて来たわけじゃないと思ったんだが」
「なんでわかんの?」
「見ない顔だ、と言っただろう」

 満谷はぱたんと本を閉じると、椅子を引いて立ち上がった。「ちょうど暇していてね。君に必要な本、私も探すよ」

 そうは言ってもお前こそ見ねえ顔だけど。そう言いそうになったのを、面倒になってやめる。正直こういういかにもな人間との話はあまり掘り下げたくなかった。

「あー、まあ、頼むわ」


 結論から言えば、満谷がいてくれて助かったと言うべきなのだろう。満谷はあんな分厚い本を一人読み耽るだけはあって、この図書室の蔵書に精通していた。俺が授業で言われた選書の条件をうろ覚えで挙げると、満谷は迷いなく本棚の森の中を歩きだしながら、「2年生はそんな授業をやっているんだね」などと微笑みながら言うのだった。

「てかあんた何年なの?」
「うん?」
「俺、2年の切原っつーんだけど。あんたは?」

 つーかさっきの言い方、まさか3年じゃないよな。ここに来てやっとその可能性に思い至って、俺は眉を寄せる。体格などから察するに、少なくとも一年ではなさそうだったが、なんというか、満谷が教室で授業をまともに受けている姿があまりにも想像できなかったので、学年という概念が頭から抜け落ちていたのだった。

「満谷晴だよ」
「はあ。で、学年は?」
「秘密にしておこうかな」

 満谷は目的の棚にたどり着いたのだろう、足を止めてこちらを振り向くとそう言ってまた笑う。「はあ?」と、意図の読めない嘯きにイライラしながらも、「ほら、切原くん。このあたりだろう」と顎を上げて本棚を見上げながらそう言われれば、渋々従うしかなかった。もし満谷が3年であっても……少なくとも、俺が敬語を使わなかったからと言って機嫌を悪くするようなタイプではないようだったから、まあいいかと思いつつ。
 とりあえず、といった体で、それらしい本を適当に一冊抜き取ってみる。満谷はそれを横目でちらりと見て、「ああ」とゆるく頷いた。

「いいんじゃないかな。前に読んだことがあるけれど、よくまとまっていて分かりやすかったし、感想も書きやすいだろう」

 俺は、「へえ。じゃあこれにすっか」と中身を見ないままそのまま本を脇に抱える。一発目で当たりを引いたから、その分早く終わらせられる、運がよかったなと口角が上がった。

「他には?何か借りていかないのかい」
「いや、別に」
「そうか、残念だな」

 そこまで残念そうに思っていなさそうな口振りで、満谷は書架を抜け出すべく歩き始めた。それについていきながら「なんでだよ」と聞き返すと、目の前の女子生徒は黒いつやのある髪をするすると揺らしたまま、「せっかく図書室に来たのに、もったいないなと思っただけだよ。別に無理強いする気はないから、気にしないでくれ。人に読めと言われて読む本は、大抵つまらないものだ」などと、その霧雨のような声で言うのだった。


「返却期限は2週間後だ。ちゃんと守れよ」
「言われなくともさっさと書いてさっさと返すっつーの」

 満谷は、我が物顔でカウンターの中のパソコンを操作し、俺の学生証と本に貼り付けてあったバーコードを読みとって、手際よく貸し出しの手続きを終えた。俺は、差し出された本を受け取って鞄の中にしまいこみながら、「じゃ、俺はこれで。あー、まあ、助かったぜ」とおざなりに礼を言う。なんとなく、この得体の知れない女子生徒に、あまりしっかりとした礼をする気になれなかった。後から考えてみれば、それは満谷に無意識下で萎縮していたからなのかもしれなかった。

「ああ、お役に立てて良かったよ。またね」

 満谷は、そんな俺の様子には特に何の反応も示さずに、あの目だけをすっと細めるような笑みを浮かべてそう言った。カウンターを出た満谷は、先ほどまで座っていた席に歩みを進めるようだったので、俺はそのまま図書室を出た。

 それが、満谷晴と俺の出会いだった。