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 出会ってから1ヶ月半くらい経つと、満谷は俺が来たことに気づいたタイミングで本を閉じるようになっていた。いつも読書どころではなくなることに気づいたのだろう。
 俺は週に1、2回は図書室に足を運んでいる。部活と、友人と遊ぶのと、なんとなく気分ではない時を抜かすと、大体そのくらいの頻度になるのだった。なぜ満谷に絡みに行っているのかというと、まず第一にいつ行っても満谷が定位置にいるために、すれ違うということがなくて確実に暇を潰せるからというのがある。二つ目は、人を寄せ付けない妙な雰囲気を持った満谷が、なんだかんだ俺に付き合って会話を楽しんでいるそぶりを見せているのが面白かったから。そんなわけで俺はこのことを誰に話すでもなく、なんとなく満谷のもとを訪れつづけているのだった。

「これは?」

 俺が雑に差し出した2枚の紙切れに、満谷の視線は釘付けになっている。

「お前、こういうの好きそうだなと思って。行かねえ?つか、なんなら2枚とももらってくれねえ?」

 満谷は目を瞬かせる。美術館で行われる、海外の作品も集めた展覧会。俺自身は全くそれに興味を惹かれなかったのだが、親の友人からだったかなんだかで、無料のチケットが俺の家に何枚か舞い込んできた。母と姉は二人で行くらしいし、父は特に興味がないと言った。ので、残ったチケットはとりあえずと言った体で俺に渡されたのだ。いらねえなと思いながらもチケットを両面ひっくり返してみると、載っていた絵がなんだか満谷の好みなんじゃないかなという気がしてきて、ならばと図書室に踏み込んで今目の前の女子生徒に押し付けてしまおうとしている、というのが、ことの次第だった。しかしこれを説明するのには抵抗があって、俺はそれ以上言わないまま満谷の反応をうかがった。

「……」

 満谷は何も言わず、漆黒の髪の毛をわずかに傾げた首に沿わせながらもう何回か瞬きをする。それから、「ああ、すまない」と俺と目を合わせた。

「……なんというか、私はそう言う時に切原くんにとって選択肢に挙がるような存在だったんだなと言うのが意外だったから、驚いてしまった」
「はあ?」

 いや、俺の周囲にそういう絵とかが好きそうな奴が全然いなかったせいなんだけどーーと、言おうとして、我らが部長の顔がよぎった。いや、いたな。でも正直精神的なハードルとしては、満谷の方が断然マシだった。だからまあ間違ってはいない。しかし、このことも口にするのはやめておいた。

「いいよ。せっかくだ、二人で行こう」

 満谷は目を伏せて笑う。黒い髪がするりと束になって動いた。
 どきっとした。それは否定できない。しかし言わせてもらうならば、それは満谷がーー図書室の怪だとすら思える(上に本人もそれを気に入ったそぶりすら見せた)この奇妙な女子生徒が、図書室から出ることに賛同したことについてだった。
 ……いや、冷静に考えて、満谷はきっと、遅くとも最終下校時刻にはここを出て帰宅しているはずなのだ。しかし、それなりに長い付き合いになってきたというのに、全くその場面が想像できなかった。
 俺は満谷とこの図書室以外で顔を合わせたことがない。そもそも学年すらわからないし、仮に同じ学年でも、いわゆるマンモス校である立海で違うクラスの生徒一人にピンポイントで出くわせるかと考えれば、それ自体はあまりおかしなことではないのかもしれない。しかし、全校集会でも、この前あった体育祭でも、満谷の姿は見当たらなかった。
 ……まあ、偶然かもしれない。この場合重要なのは、今までの俺にとって図書室だけが満谷の世界だったのだ、という結果のみで、理由にはあまり興味がなかった。あったとしても、満谷のこの調子では、教えてもらえるかどうか怪しいものだったが。


 待ち合わせの約束自体はスムーズに取り付けられたし、満谷の性格からして無理なものは無理とはじめに言うだろうから、ドタキャンはないだろうと分かってはいた。いたが、半ば呆然としたまま家を出て待ち合わせ場所に向かい、俺にしては約束よりやや早めに到着して、手持ち無沙汰に満谷を待っている間すら、あいつは本当に来るのだろうかと少しだけ疑問に思っていた。
 しかし果たして満谷は、時間に5分ほど遅れはしたものの、俺の待つ改札前に「やあ」と片手を上げつつあらわれた。「すまないね、遅れてしまった」
 そして当然のように、満谷は私服姿だった。クラシックな雰囲気の、黒いワンピース。膝が見えるか見えないかくらいの丈で、黒だから目立たないものの、結構かわいい意匠になっている。なんと言う名前なのかは分からないが、とにかくやりすぎない程度に装飾性があって、満谷の真っ黒な瞳と髪、白い肌、何より醸し出す少し浮いた雰囲気によく似合っていると思った。背景が人の行き交う改札だったせいか、制服でなくなったせいか、今の満谷は、少なくとも幽霊っぽくは見えない。

「図書室に縛られた幽霊じゃなかったんだな」
「実はそうなんだ。驚いたかい?」

 俺の半分以上本気のぼやきに慣れた様子で返すと、「さ、行こうか」と言って、満谷は慣れた調子で歩き出す。「道わかんの?」と聞いたら、「何度か行った事のある美術館だから、大丈夫だ」と微笑みが返ってきた。


 満谷が柳先輩と似ている、という話を少し前に満谷本人として、そのイメージは今も撤回されることなく俺の頭にある。だから、展示会場で満谷が知識を披露することなく静かに作品を見つめるだけだったのは少し意外だった。……いや、別に柳先輩が、周りの迷惑を考えずに喋り続けるような人だと思っているわけではない。ないが、あの先輩よりもさらになんだかおかしな、妙に余裕ぶったところのある満谷がそうしなかったというのが、俺をしっくりくるようなこないような、不思議な気分にさせた。
 俺は満谷の横顔を伺う。人がそこまで多くないのをいいことに、満谷は先ほどからひとつの作品の前で足を止めていた。

「これ、好きなの?」

 俺は小声で満谷に問う。満谷は真っ黒な目をきらきらと輝かせながら、「そうみたいだ」とだけ返した。満谷の掌は自然に降ろされたところでぎゅっと握られていた。俺は、その絵をもう一度見る。何が描いてあるのかよく分からない。抽象画というものなのだろうと思う。やはり、俺と満谷ではなにか物事の感じる部分が違っているのだ。そのことを悲しいとは微塵も思わないし、そうなりたくもなかったが、ああそうなのだと何かに納得した。満谷はこうした作品に心を動かされ、陶酔することを好む。その世界に入り込んで、その世界のものになりたいと、心の底から思っている。そのせいで、どことなく浮世離れした雰囲気が常に満谷には付き纏っているのだ。それが実感できたことで、逆になんとなく、満谷の人間らしいところが見えてきた気がした。
 俺は一歩下がって、その冬の昼間のような色合いの抽象画をじっくりと眺めているふりをしながら、満谷の背中を見る。小さいなと思った。ただの人間だ。当たり前だが。今までその掴みどころのない言動に誤魔化されていたが、満谷晴は紛れもなく人間だった。

「先行ってんね」

 再び一歩前に出て、満谷にぼそぼそと言う。満谷は「ああ」とだけ言って、やはりこちらは見なかった。

「いや、すまないな、待たせてしまった」
「いいよ別に」

 俺は展示室を出たところにあるソファに座って、満谷を待っていた。なんとなくスマホを取り出す気にはなれなかったから、ぼんやりと蛍光灯の光に照らされるままでいたので、満谷が出てきたことにすぐ気がついて、立ち上がる。どうやらこの美術館を出るためには、ミュージアムショップを通る必要があるらしい。俺と満谷は展示室よりは人口密度の高いそこへ向かって歩き始めた。

「そんな気に入ったの?あれ」

 気になっていたので、そう聞いてみる。

「ああ……あれは、良かった」
「どの辺が?」
「分からない」
「……そういうもんなの?」
「そういうものだ。形のないものなのに、無理やり形容する方が失礼だろう。感じるだけでいいんだ」

 満谷がそこまで話したところで、ミュージアムショップにたどり着いた。そこで話が一区切りついたと感じたのだろう、隣を歩いていた満谷は俺に向かって、「きっと切原くんにも分かる時がくるさ」とすっと目を細めて笑った。
 俺はそれから目を逸らして、ミュージアムショップを見渡す。Tシャツ、菓子類、ノートやペン、画集……奥の方の壁に、ポストカードがずらりと並んだ一角があった。「満谷、あそこにあるんじゃねーの?さっきのやつ」

 満谷も俺の視線に合わせてそちらを見た。「ああ、そうだろうな。……でも、いいんだ」
「…………」

 俺は何か言いかけたままの顔でしばらく考え込む。怪訝そうな、そして半ば面白そうな顔で満谷がこちらを見るので、「…………そういうもんなんだろうなって思ってた」と渋々こぼすと、満谷は花が咲くように笑った。

「やっぱり切原くんはいいね」
「いいって何がだよ」
「なにより素直だし、感性も豊かだ。なんだかんだ言って私の話に付き合ってくれるしね」
「それは……」

 それは、やたらキャラの濃い先輩たちの話を日頃聞かされ続けているからだ。そう言おうとして、やめた。どう考えても満谷もあのメンツに負けないくらいキャラが濃い。

「……」

 とうとう黙り込んだ俺を見て満谷は、まだ見慣れない黒いワンピースをゆっくりと翻して、また笑った。