本番前の楽屋には、出番を待つ私と貴音以外に誰もいない。中継用に置かれているテレビに最近ブレイクした歌手が歌うところが流れている。
貴音はみんながいなくなってからもしばらく衣装のチェックをしていたが、先ほどからは私と一緒に暖かいお茶を飲みながらぼうっとテレビを眺めていた。中継が少し遅れた画面で、歌い終わった歌手がぺこりとお辞儀をする。
そろそろスタンバイしなきゃ、と手を温めていたお茶を飲み干して立ち上がった私を、貴音が引き止めた。

「晴」
「貴音?どうした、の……」

ふわりと髪をかきあげた貴音がこちらにかがむ。気づくと目を伏せた貴音の顔がものすごく間近にあって、私はびっくりして目を瞑った。
どれくらい経っただろうか。貴音は本番前の人間を長く引き止めるような人ではないから、おそらくほんの短い間だったのだろうけれど、私にはもっと長い時間にも感じられた。
ちゅ、と小さな音をたててやわらかな唇が離れる。そこでやっと私は貴音にキスをされていたことに気がついた。まだ唇に感覚が残っていて、顔が一気に真っ赤になる。

「おまじないです。顔色が優れないようでしたので」

確かに今日は大物の集まる生放送番組で、いつもよりかなり緊張していた。でもまさか、そんなに顔に出ていたなんて。そして貴音がこんなことをするなんて!
その分ではもう心配はないようですね、といたずらっぽく微笑む貴音があんまりに綺麗だったから、私のただでさえ赤くなっていた顔はさらに熱くなってしまった。

「た、貴音はさ。……そういうの、どこで覚えてくるの……」
「ふふ。とっぷしぃくれっと、です」


いってらっしゃい、と見送られて楽屋を出る。貴音の出番はもう少し先だから、楽屋で私のステージを見ていてくれるだろうか。”おまじない”のおかげで暖かくなった手足は軽く、顔はまだ熱く火照っていて、これは本番までに収まるだろうか……などと考えながら、私は蛍光灯で照らされた廊下を小走りで進むのであった。





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