なんだか全部がうまくいかない日だった。いや、というよりは、嫌なことがたくさんあった日だった、と言った方が正確だろう。仕事をどれだけうまくこなしても、セクハラ・パワハラ紛いの言動を平気でとるような人間が、この世界には山のようにいるのだ。普段だったらまあそういう日もあるよ、と自分で自分を励ましてなんとかなるものだけど、今日はそういう気力すらなくて、電車の中で虚ろな目でスマートフォンの通知を確認する。とりあえず緊急の連絡は来ていないから、もうこのままさっさと家に帰って寝てしまおうか。それとも帰りにコンビニに寄って、せめてスイーツくらいは買って帰ったほうがいいかな。甘いものでも食べないとやってられない気分だし……。
 そう考えながら終電近い車内、周りの疲れ切った空気から目を背けるように、スマートフォンにイヤホンをつないだが、もはや元気の出るような曲を聴く気力すらなかった。自分で言うのもなんだが中々の重症である。諦めてまっすぐ帰ろう。がたんがたんと規則的に揺れる電車に揺られながら、ふと窓に映る自分と目があった。……ひどい顔をしている。とても事務所のみんなには見せられない。

 自動改札を抜けて人気のない帰路について、見上げた星ひとつ見えない曇天に何もそこまでじゃなくてもなあと苦笑する。ぬるい空気がじわりとまとわりついてくるようで、私はそれから逃げるように足早に家へと向かった。
 自宅は特になんの変哲もない一人暮らし向けのマンションである。エレベーターに乗って自分の部屋の階のボタンを押して、小さな窓の外の風景が淡々と移り行くのをぼんやり眺める。やがて小さく軽快な音が、エレベーターが目的の階に到着したことを告げた。
 見慣れた我が家のドアを開けると、「おかえり」と声がした。驚いていると奥の方から軽い足音を立てて見慣れた顔がやってくる。天ヶ瀬冬馬……私の担当するアイドル、兼、恋人だ。冬馬には合鍵を渡しているので私の知らないところで部屋に上がっていたこと自体は問題ないのだが、この時間に未成年……それも人気アイドルが1人で、というのが気にかかる。最近は面倒な記者も少しは落ち着いたみたいだから前よりはマシとはいえ、誰かに見られていたら……、などと、私にもう少し元気があったら小言の1つも言ってやらなくてはというところだったが、今日はそれどころではなかった。「とうま……?」と呟く疲れ切った私の表情を見て、冬馬は少し驚いたような顔をしたものの、すぐに優しい笑みを浮かべる。

「疲れただろ。飯、もう食ったか?」
「微妙に……」
「ん。じゃあ良かった。スープ作ってあるから食えよ。悪いけど冷蔵庫の野菜とか色々使ったぜ」
「ん……ありがと」

当たり前のように鞄やらコートやらを回収されている。いつの間にこういうことができるようになっちゃったんだろうなあ、それとも最初からこうだったっけ……とひとりごちながら、冬馬の後にくっついてリビングに向かった。



 冬馬の作ってくれたスープは疲れ切った私がうっかり泣きそうになるレベルに美味しかった。きっとひどい顔をしていただろうに、冬馬は何も言わずに私を見守ってくれていて、そこでまた涙腺が緩みそうになって焦りながらも、暖かいスープを食べたことでようやく少し落ち着けた。ごちそうさまでした、と手を合わせて、食器をシンクに置いて、となりのコンロでお茶を淹れるべくお湯を沸かしている冬馬のとなりに立った。

「……ありがとう冬馬。……ちょっと……今日、ダメだったから、いてくれて嬉しかった」

でも、どうして私の家にいたの?と聞くと、冬馬は後ろめたそうに後頭部を軽く掻く。

「翔太がな。あんたが元気なさそうだって送ってきたから……、ほら、俺、今日は遅くまでかかる仕事なかっただろ」
「ああ、なるほど……でも、結構待たせちゃったよね」
「いいんだよ、別に。俺は……ほら、一応?あんたの、恋人、な……訳だし……」

 言っていることはかっこいいのに顔が真っ赤なせいで大変かわいくなってしまっている。生まれ持ったはっとするようなかっこよさに時々(わりと頻繁に?)こういうかわいさが入るところが私はたまらなく好きだ。できたら冬馬が大人になっても、時々はこういうところを見せてほしいと思うくらいには。

「一応なの?」
「ばっ……、言葉の綾だ!」

なんだよ、急に普段通りになりやがって……と赤く染まった頬のまま負け惜しみのように呟く。

「冗談だよ。冬馬はちゃんと私の恋人です」
「……そうかよ」
「そうだよ。冬馬は私の自慢のかっこいい彼氏さんなんだから、そんなに拗ねないで」

 やかんがお湯が沸いたのを知らせると、いやべつに拗ねてねぇけど……と、冬馬は慣れた手つきでお茶を淹れ始める。でも耳までまっかっかなのは変わらずだ。こういう時私がやると言っても聞いてくれないのは知っているから、戸棚から2人分のマグカップを出してテーブルに置いた。

「晴」

 お茶をだいたい飲み終わって、ふたりして落ち着いてきたところで、冬馬は私の名前を呼んだ。ほら、と右手はこっちに差し出して、左手は自分のとなりをぽんぽんと叩く。……こういう仕草が様になるのが、誇らしいような、悔しいような。正直名前を呼ばれるだけでどきどきしてしまうのだから、急にかっこよくなるのはやめてほしい。ぺとぺととフローリングを歩いて冬馬のとなりに座ると、男の子らしい大きな手が頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。

「……冬馬が私の名前呼ぶの、久しぶりに聞いた気がする」

 冬馬の肩にもたれかかりながら呟く。ともすれば空気にそのまま解けてしまいそうな弱々しい声になってしまったけれど、冬馬はいつだってちゃんと聞き取ってくれる。

「そうか?そこまでじゃないだろ」
「ううん、久しぶりだよ」

 そこで次を言うのが恥ずかしくなって、冬馬にぎゅっと抱きついて、首筋に顔を寄せて、だから、もういっかい呼んで。と、言った。
 ……参った。自分で感じていたよりもはるかに今日の私は弱っている。言ってから結局恥ずかしさがじわじわと襲ってきて、やっぱり撤回しようかな、とさえ思えてきた。

「晴」

 と、冬馬がまた私の名前を呼んだ。多分どんなテレビやラジオでも出したことがない、とびきり優しくていとおしげな声。こんなの不意打ちだ。たまらなくてうっかり目頭が熱くなって、返事ができない。
 そうすると冬馬の手、私のだいすきな手が、背中を優しくとん、とん、と叩いて、それで私はぽろり、とあつい目から何かがこぼれるのを感じた。それは冬馬の着ている柔らかいシャツに染み込んでいく。ああ、服が、と思うけど、それもどこかぼんやりした思考の中だ。

「とうま……ごめん、わたし、」

 一回溢れてしまうと止まらなくて、瞬きするたびにぼたぼたと落ちていく。ごめん、ともう一度言おうとしたけど途中でしゃくりあげてしまってできなかった。情けなくて、でも冬馬がそばにいてくれるからますます止まらない。

「謝んなくていいから」

 低くて優しい声が横から聴こえて、背中の手は私をそのまま抱きしめた。

「あんたの自慢の彼氏なんだろ。これくらいさせろよ」

 ああ、ずるいなあ。いつもだったら照れくさくて茶化しちゃうところだけど、今はこのままでいたいから、私は「うん……」とだけ言って、冬馬の肩口に顔を埋めた。





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