「ああっ!」

 いつも通りの充実した日々、仕事終わりの時間をいつもの面々……今日の場合は私と貴音、やよい、そしてプロデューサーの4人で会話に花を咲かせながら事務所で過ごしていたところ、やよいが急に何かを思い出したように大きな声をあげた。そのままあたふたと時計を確認し、「プロデューサー!すみません、私今日、弟の迎えに行かなきゃなんでした!」と焦り気味に言う。それを聞いて時計を確認してみると、確かに普段兄弟の迎えがある時にやよいが事務所を後にする時間より20分ほど遅い時刻を指していた。

「そうなのか?車出せるけど、送るか?」

 プロデューサーは手に持っていたマグカップをテーブルに置いて、やよいに向かって問いかける。

「う〜っ、ええと……お願いしてもいいですか?」

 やよいは一瞬逡巡して、しかし自力では迎えに遅れてしまうことを考えたのだろう、申し訳なさそうに頭を下げた。

「よし、じゃあ荷物持って下で集合な。車、駐車場に停めてあるから」
「はい!本当にありがとうございます、プロデューサー!それじゃ、失礼します、晴さん、貴音さん!」

 荷物をひっつかむといつもの可愛らしいお辞儀をしてぱたぱたと事務所を後にするやよい。少し……いや、本音を言えばかなり心配だが、プロデューサーが付いているなら大丈夫だろう。
足音が遠ざかって、つい立ち上がってしまっていた私がソファに落ち着き直すと、ふいに隣からふふ、と小さな笑い声が漏れ聞こえた。

「貴音?」
「あ……すみません、晴。先程のやよいがどうにも微笑ましく……」

 ソファの隣に掛けている貴音が楽しげに笑う。そこでふと思い出した。

「そういえば貴音もお姉ちゃん、なんだよね?」
「そうですね、今は妹と会うことは叶いませんが……」

 貴音は穏やかな表情で微笑んだが、その瞳に確かに郷愁が潜んでいることを知らないわけではなかった。……あまり触れない方が良い話題だっただろうか。同じ事務所の仲間としてやってきているから、初めてあった時よりはずっと彼女のことを知ることができたように思うけれど、私は貴音の「とっぷしぃくれっと」の全てを完全に知っているわけではない。それどころかプロデューサーにだって、一番大事で一番貴音を苦しめていることそのものは打ち明けていないんじゃないか、とすら思う。
 今の私では、どうしたってその透き通った瞳の奥に隠された気持ちまで理解しきることはできなかった。……いや、他人である以上、そんなことはもともと不可能なのかもしれないけれど。それでもなんだか、こうして貴音がたくさんの秘密を抱えて生きているんだという事実に直面すると、私はどうしようもない気持ちに駆られてしまうのだ。
 「やっぱり……さみしい?」そう言ってしまってから、私がその後を言い淀んだのに気がつくと、貴音はまた少し笑う。

「ふふ、そのお気持ちだけで私は嬉しいですよ」
「……そう?私でよければいつでも話とか聞くからね」

 あ、今のはちょっと失礼だったかな。……今日はなんだかうまく話せないや。そう自省の念に駆られ始めたところに、貴音は言った。

「ありがとうございます。ではひとつ……頼みごとをしても、よろしいでしょうか」
「?いいよ、貴音が言うなら」



 ……とは言ったものの、これは予想外だった。
 天井に被さるように視界に入る、銀色の綺麗な髪をぼんやり眺めながらそう思う。先ほどまで隣に座っていた貴音は、私に膝枕をした上よしよしと優しく頭を撫でている。どうしてこうなった。

「こういう時って、私が貴音を甘やかす流れなんじゃないかなあ」

 満足げな表情で私の髪の毛をかき混ぜる貴音を見上げて、少しの反論をする。というか、貴音は今をときめくアイドルで、言ってみれば同じ事務所のアイドルである私にとっても憧れの女の子なわけで。貴音の持つ気品もあいまって、いつもの事務所でこんなことになっているのは、正直なところ大変に恥ずかしい。
 貴音は「次に機会がありましたら、今度は晴が私の姉、というのも面白いかもしれませんね」と笑う。要するに今は妹でいてほしいということである。

「ふふ……、ああ、可愛らしい」

 貴音がそっと私の頬に手を滑らせながら、あまりにも優しい声でそう言うので、私はなんだか変な気持ちになってしまって、それを誤魔化すように貴音の名前を呼んでみる。

「貴音」
「はい、どうかしましたか、晴」
「あの……、これ、恥ずかしい」
「そうですか?ですが、私のお願いを聞いてくださると言ったのは晴の方ですよ」

 いたずらっぽく笑う貴音に、思わず脱力して息を吐く。こうなっては貴音はその意志を曲げないだろう。貴音はわりと頑固というか……、一度こうと決めたことはそう簡単に撤回してくれない。まったく仕方のないことである。
 まあ、私は優しいから。今は貴音が満足するまで、存分に甘やかされてあげよう。甘やかすのは、その後でも遅くない。





MainTop