その日の私は……一言で言えば意気消沈、と言った感じだった。今思い返すと信じられないが、帰り際私に挨拶をしてくれた事務所のアイドル達に何も返すことなく机に突っ伏していたのだ。気がつくと机の上に置いてあったメモ用紙の文面から察するに、どうやら私が寝ているらしいと勘違いしてくれていたようだったが、実のところそんなことは無かった。机に突っ伏し微動だにしないままではあったが、ずっと目は覚ましていたのだ。
 ……辛いことがあっても、せめて事務所では頼れるプロデューサーでいたかった。もちろん、この事務所の人はみんなとっても優しいから、そうであることを強いられているわけではない。ただ、私がそうありたいのだ。なにも誰にも頼らず1人で頑張るというような極端な話ではなく、私の心の柔らかいところはあまり他人に見せたくないと、私が勝手に思っているだけである。
 その点では、挨拶をしてくれようとしたみんなが、返事を返さなかった私が実はただひたすらにしょぼくれていたなどという情けない事実に気がつかなかったのはよかったのかも知れない。もちろん、寝ていると思われたのは少し恥ずかしいけれど、本当のことがわかるよりはマシだった。
 のそりと緩慢な動きで身を起こす。事務所の窓からは夕日が差し込んでいた。今日は朝早くからの付き添いが終わればもう何も予定はないから、事務作業を終わらせてしまおうと思っていたのに、このザマである。しかし今更事務作業をやるような元気もない。先ほどの仕事で吐かれた嫌味や暴言が嫌でも頭を巡って、心にぽっかりと空虚な穴が空いて、そこを冷たい風が通り抜けていくようだった。落ち込みすぎだ。これくらいのこと、今までだってあったのに……とひとつ重たいため息をついて、近くのコンビニでお菓子でも買ってこようかと重い腰を上げる……と、その時、事務所の入り口の扉ががちゃりと開く音がした。目を向けると入ってきたのは伊集院北斗だ。

「あれ、プロデューサー。お疲れ様です」

 私が居たことに対してなのか、少し意外そうな表情を見せた北斗は、すぐにいつもの笑顔に戻って挨拶をした。私もできるだけいつもの表情で「お疲れ様」とそれに返す。

「何か忘れ物?」
「ええ。今日中に持って帰りたい荷物を置いてきてしまって……」
「なるほどね。もしかして……あった、これかな」

 と言って心当たりの資料棚の近くに置いてあった紙袋を指す。北斗は「ああ、それです。ありがとうございます」と紙袋を回収しにこちらへ向かって来る。北斗はそのまま紙袋の中を改めると、自分のものだと確信を持ったらしく、それをそのまま左手に持った。

「あとは大丈夫?」
「ええ、当初の予定は。……ただ、少し気がかりなことができてしまって」
「えっ、大丈夫?」

 自分の落ち込みなど忘れて慌てて身を乗り出す。直近のJupiterの仕事は何だっただろうか。いや、そもそも仕事ではなくて人間関係などの相談かもしれない。ともあれ私にできることがあるかもしれないのだから、ちゃんと話を聞かなくては。後から考えたらかなり馬鹿な思考だが、その時の私は大真面目だった。

「はい。プロデューサーが付き合ってくだされば、おそらくは」
「そうなの?じゃあいくらでも話聞くよ」
「それは……、ありがたいですね」

 北斗はデスクに近い側のソファに腰掛けて、紙袋を邪魔にならないところに置いた。「それで、話なんですけど」と前置きして、真剣な顔でこちらを見据える。

「プロデューサー。無理していませんか」

 え、と声が出たように思う。が、それはあまりにも微かなものだったので、私自身にすらどちらなのか判断できなかった。

「……プロデューサーが、あまり気を使われたくない方なのは分かっているつもりですが……それでも、もしよかったら、今は俺に頼ってみませんか」
「え……、あの、北斗?」

 予想外の方向の話で頭が追いつかない。そこまで顔に出ていただろうか。いや、そうではなく。

「ごめん、気がかりなことって……もしかして、私?」

 おそるおそる尋ねると、北斗はほんの少しだけ目を瞬かせた後、「まいったな」と苦笑した。

「プロデューサー、あなたはとても魅力的な方ですが……そういう、自分のことになると急に疎くなるところは、少し心配です」
「……」

 正直、困惑している。いきなり北斗が…… 私の性分を理解していながらこんなことを言い出したことにも、魅力的云々のことにも。だが、何よりも……目の前の男に、今まで必死に保ってきた矜持を捨ててまで、甘えたくなってしまっている自分に。
 何か返事を返そうと口を開く前に、ふいに視界がぼやけ始めて、反射的に瞬きをすると、目尻に覚えのある感覚がある。まさか、と羞恥に駆られた。今まで頑張ってきたのに、こんなことで、担当アイドルの前で涙目になってしまうなんて……。
 鏡を見て確認するわけにも、ましてや目元に手をやるわけにもいかないから、ただ涙がこぼれないように祈る。これ以上優しくされたくなかった。今まで必死に保ってきた私のプライドは、ちょっと優しくされるだけで瓦解してしまうようなちっぽけなものだから。

「プロデューサー」

 そんな私の醜い願いも虚しく、北斗は私の目元にその長い指を伸ばすと、優しく涙を拭った。はっきりしてしまった視界でおそるおそる……もはや怯えすら抱きながら北斗の顔を見上げると、北斗は見たことのないような優しい微笑みを浮かべていて、それでまた視界がぼやけそうになる。

「大丈夫ですよ。俺が付いてます」

 北斗は何も分かっていない、と叫び出しそうだった。北斗の言葉に、微笑みに、安心している自分が悔しくてたまらない。
 今の私には北斗の表情も台詞も、彼の信頼するプロデューサーにではなく、彼の博愛の対象の1人に……エンジェルちゃんに向けられているもののように思えてしまって、それが嫌だった。そしてそんな馬鹿のような理由で北斗の優しさを拒絶しようとする自分が情けなくて仕方がない。昼間受けた心の傷は最初思っていたよりもずっと深かったらしく、もはや私は自分がどうしてこんなに辛いのかもよく分からなかった。
 北斗はぐちゃぐちゃの心境のままうなだれた私の頭を、そっと優しく撫でる。私は北斗の手を払い除けることができず、北斗もまた、私の頭を撫でる手を止めなかった。しかしやがて、私がしゃくりあげはじめるとーー私自身それまで自分が泣いてしまっていることに気がつかなかったのでぎょっとしたのだがーーぴたりと動きを止める。

「あ……すみません、プロデューサー。勝手なことして」

 と離れようとする北斗の手を反射的にきゅっと掴んで留める。そのままほとんど無意識に、「まだしてて……」と小さな声がこぼれたが、もはやそれを恥ずかしく思うこともなかった。
 北斗は無言で手を戻した。私が泣き止んでなんとか顔をあげられるようになるまで、私も北斗も何も言わなかった。





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