※それでも優しい指先の続き

 先日のことがあってから、北斗はさりげなくわたしを甘やかすようになった。周りに違和感を覚えさせないくらいに自然に。例えばデスクに向かう私にコーヒーを差し入れるついでに「お疲れ様です」と頭に優しくぽんと手を置いたり、二人きりのときに言い逃れができるギリギリのラインの優しい声で私を呼んだり、といった具合だ。

 北斗は気遣いのできる子だから、私がどこまで北斗の挙動を許すかというのも分かっていて、きっと私が傷つかないようにしてくれているんだろう。周りに気がつかれないということよりも、私に問い詰められた時にごまかせることを重視しているようにすら見える。北斗が私に気を使っているのは紛れもない事実だというのに、北斗はそうだと認めさせないのだ。

 ……もちろんあの時の醜態を思い出すと、それだけで羞恥で大声を出したいような気持ちになってしまうのだが、それよりも北斗を私のために変なことに巻き込んでいるということへの後ろめたさが私の心の大部分を占めた。いつかは辞めさせなくてはいけない……

 そう思っていたある日のことだ。私は事務所のデスクで事務仕事に励んでいた。単純な処理くらいなら事務員の山村くんに任せておけるのだが、そうもいかない仕事ももちろんある。最近は315ブロの知名度も上がってきて、そういう仕事の量もだんだん増えてきたのだ。そんなわけで大量のメールやら電話やらに忙殺されかけながらもパソコンの画面と睨めっこを続け、なんとか終わりが見えてきたところで、さて、もう一息だ、と伸びをして、ふと窓の外を見やるともう真っ暗だった。いつのまにか夜遅くになっていたらしい。となると事務所にはもうアイドルは残っていないのだろうか、とあたりを見回すと、ソファに見慣れた金髪がいるのが見えた。この場合の金髪というのはもちろん舞田類でも都築圭でも華村翔真でもなく、伊集院北斗のことである。そのまま様子を伺うと、どうやら何かしらの台本を読んでいるようだ。用事があって残っているなら、北斗は一応成人しているのだからまあいいけれど、問題はこの場合の「用事」というのが、事務所にい続けるための口実であるような気がしてならないことだ。

 先述したように北斗はよく気が回る。うぬぼれではなくて事実、北斗が私のことを特別気にかけていることを考えると、私に気を使わせたりしないように静かにここで私を見守るために台本に目を通すことを選んだとしてもおかしくはなかった。というか、ふつうにやりかねないし、なんなら絶対やっているだろうとすら確信できてしまう。

「あ、プロデューサー。お疲れ様です。すみません、気がつかなくて……」

 北斗は私に気がつくと台本を閉じてこちらに会釈した。

「ひと休みされますか?」
「あ……いや、もうちょっとで終わるから。……北斗は、台本読み?」
「はい。それが半分、あなたが心配で残っていたというのが残り半分です」

 なんて。でも、プロデューサーは集中力があるから、一度頑張り始めると休憩を取らないことが多くて心配なのは本当ですよ。北斗はそう言って優しく笑った。
 ……本当に私のプライドを傷つけないのが上手だ。北斗は、自分が私より年下であるということ、私がプロデューサーであること、そして私がそういう立場をすごく気にしてしまうこと……この見栄っ張りでくだらない意地を張りがちな性格まで、全て理解している。
 そこで私の罪悪感が急に膨れ上がった。北斗の機微に敏感で物分かりがよく繊細な心配りのできるところが、最近は特に私に向けてだけ発揮されているであろうということに、突然どうしようもなく耐えられなくなってしまったのだ。

「……いつも、変なことにつき合わせちゃってごめんね」

 この焦りにも似た気持ちから逃れたくて、焦るように口に出すと、北斗はきょとんとした顔をした。

「私、もういい大人なのに……北斗に、いろいろ……気を遣わせちゃってるでしょ」

 ああ、だめだ、と言ってから思った。北斗は私がそんなことないですよ、なんて返して欲しくないことすら分かっているだろう。

「プロデューサーから見たらそうかもしれませんね。でもこれは俺がしたくてしていることなので」

 微笑む北斗に、私は反論しようと口を開くが、北斗はそれを制して続ける。

「……プロデューサーにとって俺が特別な存在になっているように思えて、嬉しかったんです」

 今度は私がきょとんとする番だった。若干唐突な話の切り出し方ではあったが、台詞自体は……実のところまあ予想の範疇だった。でも、それを発する北斗の表情が……上手く言えないけれど、いつもと違う。

「事務所のみんなが知らないあなたの一面を、俺だけが知っているということに、優越感をおぼえていた。それが、俺があなたに優しくする理由です。……すみません、プロデューサー。でもきっと、あなたが思っているよりずっと、俺は汚い男ですよ」

 苦々しげな、自嘲の混じった表情で北斗は言った。

「……」

 少し、安心した。なんて言ったら北斗は嫌がるだろうか。今までーーあの日からずっと、北斗の優しさを受け止めようとするたびに、どうしても消せない焦燥感があった。私は北斗にとって、ただの庇護すべき対象になってしまったのではないかと思っては、プロデューサーとしての顔を崩してしまったあの時のことを悔やんだりもした。……だから、よかった。

「北斗は……それを汚いと思えるんだから、大丈夫だよ」
「そうでしょうか?……すみません、プロデューサー。俺…………」

 北斗は軽く頭を振る。どうやら自分自身に困惑しているようだった。私には安心の材料となった北斗の人間臭い汚さは、彼自身には理解しがたいものであるらしい。

「うん、大丈夫。人間ちょっとは汚いところくらいあって当然だから」

 北斗はそれを聴くと目元を少し綻ばせた。

「そう……ですね。ありがとうございます。……なんだか、恥ずかしいところを見せてしまいましたね」
「それは……まあ、お互い様だし……」

 なんとなく照れくさくなってしまってふいと顔を逸らす。自信満々に北斗のことを励ましておきながら本人がこの調子では格好がつかないな、と視線をさまよわせた。

「……じゃあ、2人っきりの時はもっと堂々と……その、甘やかしてくれていいよ」

 視線を合わせないまま言ったから、北斗が実際どんな顔をしたのかは分からなかった。それでも、隣の慣れた気配が、ひとつほんのかすかに息をのんだのは感じ取れた。

「……いいんですか、そんなこと言っちゃって」
「う……、まあ、ほどほどにはしてほしいけど……北斗に気をつかわれてる感じがしてやっぱり申し訳なかったから」
「そうですか?……じゃあ、俺、本気でプロデューサーのこと特別扱いして甘やかしちゃいますからね」

 いたずらっぽく言ったように見せようとして、少し失敗してしまったような、そんな声色だった。





MainTop