本丸という閉じた空間で過ごしていたからなのか、久しぶりの現世はひどく情報量が多く、ごちゃごちゃした空間に見えた。私は隣を歩く巴形薙刀の顔を見上げる。「なんだ、主。少し休むか」巴は私の方に少し屈むと、いつもと変わらない表情でーー正確には、いつもの私を気遣う表情で、言った。現世に赴くにあたって私が指名したこの薙刀は、冷たそうな相貌をしておきながらずいぶんと私に甘い。この付喪神の成り立ちを考えれば、そうなるのも当然なのだが、顕現した当初はそのかいがいしさに驚いたものだ。

「ううん、大丈夫。さっさと終わらせて帰ろう」
「……そうか。分かった」

 私がそう言うと、巴は言葉でこそ肯定を示したものの、少ししょんぼりとしていた。私の"大丈夫"が誤魔化しであることに気づいているのだろう。
 ……私は現世になんて来たくはなかった。もう二度と、この街には戻らないと、そう決めていた。戻っても意味がないから。私に意味を与えるものは、この街にはすでにないからだ。


 時間遡行軍との戦いの性質上、時の政府は過去にも目を配り続けている。歴史の流れを大きく変える致命的な改変を阻止するのが審神者と刀剣男士の役目だが、それ以外、小さな歪みのような変化も、溢すことなくしっかりと監視されているのだ。しかし政府がその小さな歪みまで丁寧に直してくれる訳ではない。例えばひとつの家族が何かしらの改変によって存在ごと歴史から消えてしまっても、この戦争は最終的に“大まかな歴史が守られていればそれでいい”ので、それは些細な事象、必要な犠牲であった、としてそのまま放置される。
 ……それは、確かに正しい考えなのかも知れない。けれど、当事者にとってはたまったものではなかった。ある日突然家族が消え、我が家が消え、あるべき場所にあるべき物がなくなるあの恐怖は、忘れられるものではない。

 そして、幸か不幸か、私には審神者の適性があった。審神者の適性というのは、もちろん刀剣を顕現させることができるか、という霊能者的なものも含まれているが、それ以上に審神者、歴史というあやふやなものを守り、付喪神というあやふやなものを統べる者たちには、「外部からの干渉に強い」ことが求められているのだ。正しい歴史と間違った歴史。妖怪と神とモノのはざまにある付喪神たち。審神者の適性がない人間は、こういった「あやふやなもの」に引きずられ、感化されて、自分の存在まであやふやになってしまうのだ。
 そうした審神者の適正があり、外部からの干渉に強かった私は、あの街で唯一、あの歴史改変の影響を受けず、その場に残り続けることになった。突然家族が消え、我が家が消え、あるべき場所にあるべき物がなくなる様を目の当たりにしながら、自分だけが「正しい歴史」を覚えている。……悪い夢のようで、たしかに起こってしまったことだった。自分の過ごした家には違う家が建ち、知らない家族が知らない表情を浮かべている。よろめいて倒れるように座りこんだアスファルトはひどく異質なものに感じた。いや、あの瞬間から、真に”ひどく異質”なのは私となったのだ。

 歴史から弾き出された私は、その後政府の監視により見つけだされ、ほとんど流されるままに審神者となった。私を忘れた世界に私を存在させうるものはなく、今この私を私たらしめているのは本丸にいる刀剣男士である。
 他人に存在をみとめられないと存在できないのは神や妖怪だけでなく人間も同じだから、……そうでなくても、あの現世にいつづける精神力は私にはなかっただろうから。私はもう、現世に来るつもりはなかったのだ。


 それが今、こうしてあの時と同じアスファルトを踏みしめているのだから、皮肉なものだと思う。私たちは今、お互いのみを存在の糧としながら、ひっそりと歩みを進めている。夏の日差しは私たちを確かに強く照らしているのに、私の指先はいやに冷たい。幽霊みたいだ、とぼんやり思って、この世界にとって私は幽霊みたいなものなのだった、と気がつき、もう何も考えないことにした。

 そんな私が今更現世のこの街に来なければならなかったのには、どうしようもない訳があった。端的に言えば、私も歴史から消えかけているのだ。改変された歴史上で、私と近いところに位置する人物の記憶、その物語が、少しずつ入り混じり始めている。見たことがないはずの物を懐かしく思い、出会ったことがないはずの人物との思い出がふと思い出され、果てはまやかしの記憶に心を酷く揺さぶられる。ひどい体験だった。歴史からはじき出されて、それでも決定的な縁は残り続け、そのせいでこんな目にあっている。私は何もしていないのに、と、そう思ってしまったのは私が弱いからだろうか?もしそうだとしても、成された改変が覆らない以上、私がこの気持ちを捨て切れることはおそらくないだろう。

 ともかく、私は今日、現世との繋がりを断ち切りに来た。そうしてしまえば、もう私は完全に現世から切り離され、歴史改変の影響を受けることもなくなる。他の筆者の話が混ざってしまうよりは、まっさらな白い本の方が、物語も綴りやすいだろうということだ。

 巴と一緒に無言のまましばらく歩いて、私の家があった場所にたどり着いた。あの時から変わらず、知らない家族の表札がかけられている。玄関の脇にはキックスクーターが立てかけられていて、どうやら小学生くらいの子供がいる家らしかった。
 深く息を吸い込もうとして、自分がひどく汗をかいていたことに気がついた。「無理はするな」と巴が私の方に屈んで言った。「……大丈夫」私はかぶりを振る。無理だろうが何だろうが、やらなければいけない、それくらいの緊急度だからここにいるのだ。巴もそれを分かっているはずで、それでも主をいたわらずにはいられない。私の顕現した巴形薙刀はそういうたちの刀であった。

 私は巴を連れて家を離れ、政府の術師に言われたように街を巡りはじめる。審神者様の思い入れの深い場所を回ってきてください、とのことだった。縁を断ち切るためにはまず、縁がしっかりと存在していなければならないから、長い本丸暮らしで希薄になった縁を一時的に少しでも結び直すことが必要らしい。断ち切るための縁を結びに行くための旅である。ますます考えるのが億劫になってしまって、とにかく足を動かした。

 小さい頃遊んだ公園、小学校、中学の時いつもジュースを買った自動販売機、仲の良い店員のおばちゃんがいた文房具店。すべて、私の記憶のままのような姿でそこにあった。そのままのようで、しかし少し年月の経過した姿で……そして決定的に私を拒絶している。
 私は歩みを止めた。炎天下、くらむような日差しが、私のことまで焼いて消してしまうように思えて怖かった。アスファルトは私の靴の底を通してじりじりと熱を伝えてくる。いつかと同じ色をした空が、息のできなくなるほど恐ろしい。逃げ場などどこにもないような、そんな住宅街のありふれた道である。そして、ほんとうなら私の行き慣れた通りだったはずの道である。目頭が熱くなるのを感じた。もう自らと関係のなくなった場所に行ったところで今更、もう特に感慨やら悲しみやら孤独感やら、そんなくだらない気持ちに胸を痛めることはないだろうとそうたかを括っていた。いや、強がっていた、虚勢をはっていた、そう信じていたかったのだ。自らの心と向き合うのが怖くて、何も考えずにいた。本当は、……ほんとうは……
 私は巴の袖の端を握りしめた。本当は私の冷え切った指先は温もりを求めていて、手を繋いでしまいたいくらいだったけれど、私に残されたのは審神者という立場くらいだったので、そのプライドがそれを引き止めた。

「……主」

 巴は眉を寄せていた。あまり感情が表情に出ない私の巴形薙刀にとって、最大限の心配の現れである。巴はその大きな体を、私と視線を合わせるように丸めた。そのまま、言葉を整理し切れていないような口調のまま続ける。

「これを成さねば主の身が危ういというのは理解している。が、主、……俺は主のそのような悲痛な面持ちを目にすると、ひどく心が痛むのだ」

 私が泣きそうな顔のまま、返事ができないでいると、巴はいたわしげな顔のまま、それでも少し微笑んで見せた。「主、俺がついている。どうか笑っていてくれ。これから先、主の身に何が起ころうと、俺は側にいる」

「……そう、そうだね……ありがとう」

 私も微笑み返そうとしたが、きっとうまく笑えてはいないだろう。それでも巴は満足げに、その微笑みを深くした。


 ……巴形薙刀という刀剣男士を顕現して真っ先に私が抱いたのは親近感であった。同族意識と言ってもいいだろう。巴形薙刀はその特殊な成り立ちゆえに、己を構成する逸話を持たず、その物語はこの本丸の一員となってから初めて綴られる。ーー似ている、と思った。おこがましい考えなのかもしれないが、それでも、現世で綴った私の物語を捨てる時、初めて踏み出す一歩には、巴に付いていて欲しかったのだ。


 「行こう」と、掴んだままだった巴の袖から手を離すと、「ああ」と、柔らかな返事が帰ってきた。「我らの物語はここから」


/曲から話書くやつ





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