木曜日、2限終わりの休み時間。次が移動授業でないこともあって、教室の中は賑やかな声に満ちている。私はなるべく目立たないように立ち上がると、窓際から二番目の列の、一番後ろの席まで歩いた。運の良いことに、見慣れた銀髪はちゃんとそこに座っている。私はそれに安堵しながら、ちょうど私に視線をやった席の主にこっそりと耳打ちした。

「仁王ちゃん、なんか食べるもの持ってない?」
「……なんじゃ、出し抜けに。朝飯食べとらんの?」

 仁王は私に気を遣ったのか、それともただ単純にそういう気分だったのか、普段より幾分声をひそめて返事をする。

「うーん、まあ、食べたっちゃ食べたんだけど……」

 言い淀む私に、仁王はじとりと視線を向けた。

「どうせろくなもん食べとらんのじゃろ」

 ……仁王ちゃんには言われたくない、という反論が脳裏をよぎったが、さすがに今日ばかりは何も言えなかった。
 というのも、今朝は久しぶりに寝坊をしてしまって、起きたらいつも家を出ている時間だったのだ。半泣きになりながら必死に急いだ結果なんとか遅刻こそしなかったものの、時間に追われて朝食がおろそかになったのは事実だった。
 仁王の視線を居心地悪く受け流しながら、今朝の食事を思い返してみる。たしか、安かったので買い置きしてあったクッキーを数枚、一気に頬張って無理やり噛み砕きながら着替えをした。それと、少しでもカロリーになればと思って出がけにオレンジジュースも飲んだはずだ。それで終わり。
 ……私は今日何度目かのため息を心の中でつく。まあ、これじゃお腹が空いて当然だ。昼休み以外でものを食べるのはあまり褒められたことではないが、この際そんなことは言っていられなかった。
 いつになくしおらしい私の態度から、おおむねの事情を察したのであろう。仁王は「しょうがないのう……」などと言いながら、どこからか、コンビニでよく見るチョコレートを取り出した。チャック付きの袋に入ったやつだから、量もそこそこある。しかも、私の好みの種類だった。

「おっ、やった。さすが」

 仁王がパッケージを見せつけてくるから、完全にくれるものだと思って受け取ろうと手を差し出す。すると仁王は私の手をひょいっとかわして、袋を私の届かないところにやってしまった。私はといえば、行き場のなくなった手をそろそろと下ろしながら、仁王に怪訝な視線を送るしかない。

「……仁王ちゃん?」
「あげてもいいが、ただというわけにはいかん」

 仁王はいつもと変わらず、飄々とした様子で言う。口元には薄い笑みが浮かんでいた。私は目の前の詐欺師の真意が分からず、少なからず困惑する。

「……えっと、さすがに後でお返しはするよ?もちろん」
「ほう?」

 仁王は顎を上げてこちらを見上げたまま、からかうように目を少しだけ細めた。

「あの……普通にお菓子とかだけど。仁王ちゃんが好きそうなやつ、こないだ新発売であったから……一緒に食べたいと思って……えっと、これじゃお返しにならない?」

 そう申し出てみると、仁王は口を尖らせる。しかし余裕ぶっていた顔が少しうつむき加減になっているあたり、効果はあったのだろう。

「……はずれじゃ。お前さん、変なとこで真面目じゃの」
「ええ?はずれ?正解があるやつだったの?」

 ていうか、やってほしいことがあるなら最初から言ってくれればいいのに。私がそう言うと、仁王は頬杖をついて、こちらをわざとらしく見つめた。完全に惚れた弱みだが、上目遣いがとんでもなく可愛らしく見えて、ぐっと息が詰まる。私が何も言えずにいると、仁王はぷい、と目を逸らして、口を開いた。

「名前」
「え?」
「雅治って呼んでくれんと、あげられん」
「ま……」

 なるほど……、と、口の中でもごもごとつぶやく。仁王の言い出すことはいつも唐突で、不意をつかれるのにもいい加減慣れてきたから、いつもの仁王のつかみどころのない態度で言われたなら受け流せたはずなのだ。しかしどうやら今のセリフは、本音を冗談で包むのを忘れたままうっかり口からこぼれてしまったものらしいことが察せられてしまったものだから、うまい返事が思いつかない。
 いや、彼のことだから、全てわざとなのかもしれないけれど。そう思いかけたところで、向こうを向いた仁王の耳がしっかり赤くなっていることに気づいてしまった。……もうだめだ。私まで顔が熱い。完全にもらい事故だった。

「……『仁王ちゃん』もいいけどの、俺だってそういう気分の時があるってことじゃ」

 完全に照れ隠しといった様子を隠さないままそう付け足される。私は我慢できなくなって、仁王のすぐ隣まで歩み寄った。仁王はまだ、窓の外に目をやっているふりで顔をそむけていて、そうすると彼の横顔がよく見えた。

 結局私は、顔を真っ赤にした仁王にかっこつかない告白をされたあの日から、見た目の割にもしかしたら恋愛においてはものすごく不器用なのではないかと思えるこの男の、ごく稀にこぼれるむきだしの本音が愛おしくてたまらなくなってしまっていたのだ。

 「……雅治」横顔を見つめて言う。
 「好きだよ」……堪えきれずに、言う。

 仁王は銀髪のしっぽを翻して、ばっとこちらを振り向いた。目が合う。骨ばった、私の大好きな手を何かの動作の途中で固まらせたまま、変な顔をしている。それを見て、私の笑みは勝手にますます深くなった。胸がふわふわと落ち着かない。ちょっと落ち込んでいたのも空腹も、もうどこかにいってしまったようで、今ならなんだって頑張れる気がする。

 ほんの少しの間、仁王と私はそのまま見つめ合って、そうしたら仁王がぎゅっと目をつぶった後、「そんなに欲しいのか、お前さん」とまだ若干むすっとしたような顔でチョコレートを渡してくるものだから、私は思わず声を上げて笑ってしまった。





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