「大学を卒業したらプロになろうと思うんだ」

 いつものように先輩の家にお邪魔して、一緒に映画を見て、その流れでなんとなく雑談をしていたら、先輩が真剣な顔をして「大事な話があるんだけど」なんて言い出すから、何事かと思った。私はぴりついた頬の力を抜いて、唇をゆるく尖らせる。ソファの隣に座っている先輩を横目で見て、「そうですか」と、おそらく先輩にとっては場違いに思えるくらいに軽い返事を返してやると、先輩はなんとも言えない表情をした。

「変な顔」

 思わず鼻で笑ってしまった。もしかしたら先輩の機嫌を損ねてしまったかもしれないなと思ったけれど、先輩はむしろこれで肩の力が抜けたらしく、へにゃりと眉を下げて微笑んだ。たぶん、「もっとびっくりすると思ってたんだけど」とか、「もっと色々言われると思ってたんだけど」とか、そういうようなことを言うために口を開いて、でも何も言えないまま、困ったような顔で目を逸らす。

「そうするんだろうなって思ってましたし。おめでとうございます?……でいいんですか?頑張ってくださいね」
「……晴ちゃん」
「はい」
「……いいの?」
「何が?」
「今までみたいに一緒にいられないけど」
「うん」
「寂しい思いさせちゃうよ」
「……」

 なんというか、心外だった。でも、うまく言葉にできなかったから、少しの間上を見る。私の家のとは違う、少し黄色みのかった優しい光が目に入った。それから、背の高い白い棚と、写真たち。私が抗議しても知らんぷりで置かれ続けている、私の写真の入った写真立て。窓際の一番日当たりの良い場所に置かれたサボテン。風通しは良いけどそこまで日は当たらない場所に置かれたサボテン。たくさんの本。その中に当然のようにある、「テニス」の文字の入った背表紙。

「先輩、私は……」

 それらを見ながら話し始めて、それから首をかしげて覗き込むように先輩と目を合わせる。ちょっと照れるけど、どうやら先輩にとってはすごく大事な話みたいだったから、仕方がない。仕方がないというか……これくらいは返すべきだと思った。

「私は……先輩のことが大好きで……それで、先輩のテニスも好きです。テニスが好きな先輩のことも好き。今までだって、テニスと先輩の全部をひっくるめて、それでも全部好きだったんです。だから、先輩のテニスがこれからもたくさん見られるのがすごく嬉しいし……寂しいのはまあそうですけど、別に平気です」

 平気っていうか……、付け足すように呟く。

「許容範囲内?」

 ギリギリ。とは言わずにおいた。先輩に心配をかけたくなかったのと、先輩にあんまりそういうしおらしいところを見せたくなかったからだ。

「テニスと私が別枠なのも知ってますし。ていうか先輩普段私にべたべたしすぎだし。ちょうどなんじゃないですか?」
「ええ?酷くない?」
「いや……、冗談ですよ。半分くらいは」
「半分は本気なんだ……」

 先輩は、ソファに後ろ手をついて、ふふふと脱力したように笑った。私はそれをちらりと見てから、また口を開く。

「むしろ私は先輩の方が心配なんですけど」

 図星だったようだ。先輩はわずかに目を伏せて、苦笑して、そしてそのまま固まっている。……不安なんだろうな。私を置いていくのが。自分の都合で好き勝手して晴ちゃんに迷惑かけるのに、寂しいなんて思っていいのかな、とか思ってそう。本当に寂しいのは晴ちゃんの方なのに、みたいな。もしかしたら、愛想を尽かして僕のことどうでもよくなっちゃうんじゃないか、とかも思ってるかも。……全部、いいのに。私はそんな先輩が悔しいことに心の底から大好きだって、先輩がとっくに知ってるのを、私も知ってるのに。

「ねえ、先輩」

 と、腰を浮かせて距離を詰めた。ぴったり隣に座って、目を合わせてくれない先輩のことを見つめて、「大丈夫だよ」と言う。すると先輩は長めの髪の毛をさらりと揺らしてこちらに視線をやった。……やっぱり先輩は優しい。私だったらまだそっぽを向いているところだ。笑いの息が漏れそうになったままの表情で、先輩のために愛しさをぎゅっと込めて微笑んだ。

「私が先輩の帰る場所になってあげる」

 先輩は目を見開いた。瞳にわずかに揺れるきらめきをたたえて、唇を少しだけ開いて、私のことを見ている。だから私も先輩から目を逸らさない。

「だから、大丈夫。どこにいても、何してても、私のこと好きでいていいよ」

 先輩は一度瞳を閉じかけるようにして、息を吐いた。それからどこか泣きそうなまま満面の笑みをつくって、私のことを勢いよく抱きしめた。ぎゅう、とまあまあ遠慮なく力を込められる。それがどうしてかとてつもなく嬉しく感じて、とりあえず先輩のことを呼んでみた。

「先輩」
「……周助って呼んで」
「周助さん」
「……」

 腕の力が少しだけ強まる。でも、ぎりぎり苦しくはない。そういうところがちょっとだけムカつく。だって、こういうところも好きなのだ。

「応援してますよ。ぜったい。周助さんがどこにいようと。今までとなにも変わりません」

 抱きしめられていて顔が見えないから、いつもより少しだけ柔らかく言えた。本当は、ずっと好きです、とか、そういう可愛げのあることを言えたら良かったのだが。でも、言いたいことは伝わったらしい。先輩は私の首元でもぞりと頭を動かす。髪の毛が当たってくすぐったい。

「晴ちゃん」
「はい?」
「好き」
「知ってます」

 ふふん。今度こそ自慢げな笑いが漏れた。それから、「……私もですよ」と、ぼそりと言う。先輩はその後しばらく私を離してくれなかったけれど、まあ、たまにならこういうのも悪くないと思った。





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