バレてしまった。よりにもよって、不二先輩に。

 私は目の前の先輩を油のさされていないブリキのロボットのような動きで見上げると、弁明しようとして口を開く。しかし自らの目の奥がぼんやりと熱くなってきてしまったのを自覚して、ぎしりと固まった。

 放課後しばらく経った廊下は閑散としていて、先ほどまでの喧騒が嘘のように静かだ。そのせいか、窓ガラス越しに聞こえるグラウンドからの声がじんと耳に残る。きっと運動部のものだろうなと考えて、まばたきを1つした。
 夕焼けでオレンジ色をした光が、窓から眩しいくらいに入ってきている。それに照らされてにっこり笑う不二先輩は今の状況には不釣り合いなくらいの美しさで、頭がどうにかなりそうだった。

「言ってくれたらいいのに」

 先輩は固まったままの私をおかしそうに見つめて、クスッと笑った。色素の薄い茶色の髪が夕日に透かされて光る。それに見惚れてしまう自分を力いっぱい制しながら、私は必死にふさわしい返事を考えようとした。
 違うんです、そういうんじゃないんです、いや、もうこうなった以上何の申し開きもできないんですけど、でも、多分先輩の思っているのより数段めんどくさい感情なんです、だからほんとは先輩にバレるつもりなんてなくて、先輩に嫌な思いさせたくないし、めんどくさいとも思ってほしくないし、だから、違うんです。脳内で必死に言い訳を考えて、あまりのまとまらなさにうめきながら頭を抱えた。先輩はそんな私を微笑みを崩さずに見つづけている。だから、ええと、つまり……。私は問題のシーンの記憶を引っ張り出して、一から再生し始めた。



 秋になると、三年生の卒業がじわじわと近づいていることを嫌でも実感させられる。夏服の時期が終わって、不二先輩は初めて会った頃のように黒い学ランを着るようになった。
 テニスの大会が夏休み中に終わり、華々しい記録を残して部活を引退した不二先輩は、今は卒業アルバム制作委員会の活動に勤しんでいる。先輩は写真を撮るのが好きだし、それに上手い。多分、だから卒アル委員を選んだのだと思う。
 実際私も何度か、先輩が知らない生徒と一緒に何かの撮影をしているところを見かけたことがあって、私はそのたびになぜか、胸を内側からかすかに引っかかれるような気持ちになった。

 なんか、卒業しちゃうんだな、不二先輩って。

 寂しいとか悲しいとかではなく、いまいち実感が湧かないから、ぼんやりとそれを受け入れられないままでいた。不二先輩とは去年委員会が一緒だったのがきっかけで知り合ったけれど、その後は廊下ですれ違ったら挨拶と少しの雑談をしたり、図書室で偶然会っておすすめの本を紹介しあったり、時々先輩の写真の練習に付き合ったりで、仲は良いけれどあまり学年を意識しない関係だったから、なおさらだったのかもしれない。

 そんななんとも言えない心持ちの中、移動教室のおりに通りがかった三年生の教室がある階の廊下に、たくさんの写真が貼り出されてあったのだった。
 一緒に教室に戻ろうとしていた友人は足を止めて、「あ!修学旅行の写真かな」と浮き足だった様子を隠さずにその写真たちに近づいていく。

「ねえ晴、見ていっていいよね?私、大石先輩の写真探したいな」

 私が「うん」と返事をするより先に、友人はもう写真を1番から順に真剣な目で見始めていた。
 私は苦笑して友人の様子をしばらく見守った。……この分なら、私が何に注目していようが彼女は気に留めない。それにさっきの授業が四限だったから今は昼休みで、次の授業の時間も気にしなくていい。
 一瞬にしてそこまで思考を巡らせてしまってから、私はなんだか悪いことをしているような気持ちに駆られて、あたりを一度見渡した。私たちの他には雑談しながら写真を見ている生徒が数人いるくらいだ。
 私は唇をひき結ぶと、わざとゆっくりした歩調で写真を見始める。堂々としていれば怪しまれないと思ったからだ。いや、まあもしかしたら元から私のことなんて誰も気に留めていないのかもしれないけれど、それでも自分自身のために、隣の友人のような、いかにも「そういう」感じの行動をしてしまうのは避けたかった。

 ……違う。そういうのじゃない。別に、そりゃあ待ち時間に写真があったら見るし、知り合い探すでしょ、普通。だから、そういうのじゃないから。

 下手な言い訳を頭の中で重ねて、それでも視線はある写真を探していた。やましさに駆られながら、友人よりもかなり早いペースで次々に写真を確認していく。知らない三年生が笑顔を浮かべて、名所を背景にピースしている写真。おそらく宿であろう室内で歓談している生徒たちの写真。おそらく担任の教師であろう壮年の男性と肩を組んで映っている生徒の写真。そして、それを見つけた。

 不二先輩だ。

 どっと胸が高鳴る。私は下ろしたままの拳をぎゅっと握って、興奮と動揺から目を背けようと、その写真を観察した。

 不二先輩は、知らない男子生徒と一緒に写っている。と言ってもカメラに意識を向けている様子ではなく、何かを話しているのか口を開いて、視線は男子生徒ではなく写真の外の何かに注がれていた。背後に写っている建物の重厚な雰囲気からして、どこか有名な建築物を訪れた際の写真なのだろう。いつもの不二先輩よりはどことなく自然な雰囲気というか、ありのままの空気を切り取った感じがして、良い写真だと思った。
 つかの間しみじみした後に、ふとお腹のあたりがもやもやと澱むのを感じた。それは胸の辺りまでじわりと上がってくると、胸の締め付けと共に身体に広がる。
 そうか。私は不二先輩のことはそれなりに知っているけれど、逆に言えば不二先輩のことしか知らない。先輩の周りのことについては全くの無知なのだ。と、そのことに唐突に気がついてしまった。
 私と先輩が話す時はいつも一対一だったからすっかり失念していたけれど、不二先輩にも所属するクラスがあって、同じ学年の友人がいて、例えばこういうふうに何か心の動かされるものに出会った時、ふと口を開いて語りかけるような誰かが当たり前にいるのだと思うと、どうしようもないことなのに、だからこそどうしようもなく、形のないはずの何か柔らかいものがぐにゃりと歪むような心地がする。もし私が先輩と同じ学年だったなら、こうして修学旅行に一緒に行って、カメラに向かって一緒にピースをしたりして、もしかしたら持参のカメラで私のことを撮ってもらえたりもするかもしれなかった。そうしたかったわけではない。ただ、そうではないことが悔しかった。

 私はしばらくその写真を見つめて立ち尽くす。そしてもう一度、周囲をのろのろと見渡した。友人は目当てのオオイシ先輩の写真を見つけたらしく、番号をメモしていた。じっと写真を見る。……やっぱり良い写真だ。目を少しだけ伏せた。

「あれっ、晴、不二先輩のファンだっけ」

 ふいにかけられた声に私ははっと目を見開いた。先ほど私が見ていたのに気がついたのだろうか、いつの間にか隣に移動してきていた友人は、しみじみと不二先輩の写真を見て頷いている。「かっこいいもんね、不二先輩。キラキラしてるし。人気あるのわかるなあ……」

 実物はもっとキラキラしてるよ。少しだけそう言ってやりたくなった。もちろん友人はそれには気づかない。普段こういった話題に中々ついていけない私の珍しい姿に、おせっかいが加速しているようだった。

「ねえ晴、これ買うの?多分他にも不二先輩の写ってるやつあると思うけど。私探そうか?」

 私はそれをなだめるように「いや……、この写真、素敵だし。これだけにする」と首を横に振った。ただでさえこそこそとやっていたのに、これ以上長居したくない。友人は気分を害した様子もなく、「そう?じゃ、今度一緒にお金渡しに行こうね」と毒気のない笑顔を浮かべた。

 先輩って……、人気、あるんだ。いや、そうだよね。かっこいいし、優しいし、テニスも勉強もできて、まあ、ちょっと変なところも、見ようによってはチャームポイントだ。完璧。人気が出ないわけがない。私が知らなかっただけだ。
 友人に「分かった。ありがと」と返事をしながら、最後にもう一度だけ写真の貼られている廊下の壁をちらりと見て、私は教室に向かう道を歩き始めた。



 そんな経緯で手に入れた不二先輩の写真は、やっぱり何度見てもとても良い写真だった。私はそれを手帳に挟むことにした。授業用のノートなどと違い、手帳はたまにしか開かないし、うっかり落としたり、教室に忘れたりすることも防げるだろうと踏んでのことだ。
 写真を持ち歩くなんて経験は初めてだったので、しばらくは手帳に触れるたびびくびくしていたが、やがてそれにも慣れて、誰にも見つからないようにひそかに写真を見ては、形容しがたい感情に満たされるというのを繰り返した。

 それがルーティンになりつつあったある日、私は久しぶりに不二先輩に廊下で出くわした。卒業アルバムのための撮影がひと段落したらしく、久しぶりに自分のための写真を撮りたいから付き合ってくれないかな、とのことだった。
 不二先輩が私を写真撮影のための散歩に誘うのはこれが初めてのことではないし、何も考えず軽い気持ちで、いいですよ、ちょっと予定確認しますね、と手帳を取り出して、パラパラとめくって、……そうしたら、……ひらりと例の写真が落ちてしまったのだ。
 硬直する私をよそに、先輩は何気なく「何か落ちたよ」とそれを拾い上げて——「あれ、ボクだ」と半分きょとんとしながら呟いた。

 そこで話はやっと冒頭に戻ってくる。不二先輩は「ボクの写真が欲しかったの?言ってくれたらいいのに」と笑うが、私は顔色だけを赤くなったり青くなったり忙しなく変えながら、けれど何も返せない。違うんです、という主語のない言葉しか出てこないのだ。

 ——別に先輩のファンとかじゃないんです。先輩とはそういうの抜きでいたいんです。なんだか自分でもびっくりするくらいみっともない感情で買った写真で、言い出せるわけがないんです。いやいやだから、こういうのを知られたくなくてこっそり買ったのに。

「あ、あの、ごめんなさい、勝手にこんなことして……」
「うん?別に気にしてないから、大丈夫だよ」
「いや、でも」

 そんなこと言われても、気にしてない、わけがないのではないか。そう言ってしまっていいものか一瞬迷った隙に、不二先輩は微笑んだまま続けた。

「そもそも、いつも撮らせてもらってるのはこっちの方だしね。まあ、晴ちゃんも言ってくれればいつでも撮らせてあげたのになあ、とは思ってるけど」
「え、いや、あの……えっと、え?」

 なんだか思っていた反応と違う。私は自分の制服の裾をぎゅっと掴んで、離す。それから先輩の顔色をうかがうように見上げた。

「ほ、本当に気にしてないんですか?」
「全然」
「本当に全然?」
「ふふっ、うん、本当に全然。嬉しいくらいだよ。この写真、修学旅行で撮ってもらった中だと、ボクも一番好きだから」

 本当に全然気にしていない?
 私はもはや何を弁明しようとしているのかすら忘れて、「あの、でも、私これ以外の先輩の写ってる写真見てなくて」などとしどろもどろになりながら言った。

「そうなんだ。見る?母さんがボクの写ってるのは大体買ってたから、今度持ってこようか?」
「それは、見たいですけど……、そうじゃなくて、あの、不二先輩!」
「なに?」
「普通引くと思うんですけど、なんでそんな平然と流そうとしてるんですか」
「うーん……なんでって言われても。そうだね、晴ちゃんにとって、ボクがただ気にしないからって理由じゃ足りないなら、お互い様ってことでどうかな」
「お互い様?」
「ほら、ボクだって晴ちゃんの写真いっぱい持ってるし」
「ああ……」

 そういえばそうだった。でもそれは先輩の練習の成果物であって、そこに深い意図はないのではないだろうか。確かに私が練習に付き合い始めてすぐの頃、先輩に、「満谷さんの写真が増えてきたから、アルバムを作ったんだ」などと言われた時は大きな声で驚いてしまったけれど……。
 でも、不二先輩のそういう言動にはとっくに慣れている。先輩は、そういうことを他意なくしてしまうタイプの人……言ってしまえば、まあ、変人なのだ。
 私が先ほどまでよりはいくらか落ち着いたのを見てとると、先輩は言葉を続けた。

「ボクはむしろ、晴ちゃんの撮ったボクが見れるチャンスだったのになってところが残念だけど」
「私の撮った不二先輩」

 先輩は「うん」と頷いて笑う。「写真にはその人の想いが現れるから。キミに撮ってもらったら、ボクはどんなふうに写るのかなって、実は前から気になってたんだよ」

「えっと……?ちょっと、私には難しいです。写真撮ったことないし……」
「そう?何も難しくないよ。……そうだ、話がそれちゃったけど、予定はどう?もし晴ちゃんが良かったら、そこでボクのこと撮ってみるのはどうかな」


 完全に流されてしまった。それは否定できない。でも、不二先輩がどうやら本当に私がしでかしたことについて気にしていないようだったのは不幸中の幸いかもしれない。いや、不二先輩は優しいから、内心ドン引きしているのを隠してくれているだけかもしれないけれど。
 とにかくそんなこんなで私のやらかしは結果的になんのお咎めもなく流され、次の土曜日の学校終わりにいつものように待ち合わせして撮影兼散歩をすることになった。……ついでに、なぜか私が先輩のことを撮ることにもなった。

 混乱する私に素早く約束を取り付けた先輩が、「楽しみにしてるよ」と言いのこして手を振って去っていった方向を呆然と見つめ、私は狐につままれたような顔をしながら「ええ……?」とつぶやくしかなかったのであった。



 土曜日は良く晴れた。外を歩くと澄んだ冷たい空気が頬を撫でて、薄い水色をした空は高い。歩くと散った落ち葉がかさりと音を立てて、靴で踏む感触が心地よかった。
 今日は授業が四限までだから、昼食を済ませた頃に合流しようという話になっている。この後部活のある友人と一緒に昼食をとった後に、平日より軽い鞄を抱えて校舎脇の花壇の前にやや早歩きで向かうと、すでに先輩はそこに立っていた。

「不二先輩」
「晴ちゃん。早かったね」
「いえ……先輩の方が早いです」
「あはは、それもそうだね。じゃあはい、これ」

 手渡されたのは、私もよく目にする使い捨てカメラだった。袋に入った状態のそれをひっくり返すと、撮影距離についての記載がある。1メートル以上。……って、どれくらいだろう。すでに一抹の不安がよぎる。
 とりあえずと言ったていで袋を開けると、取り出した本体にもまた色々と書いてあった。27枚撮り。とりあえずシャッターボタンを押せば撮れる作りのようだ。他の機能はフラッシュくらいだけど、それも今日はあまり使う機会はないかもしれない。説明書きに目を通している間に、先輩も自分のカメラを取り出していた。

「ボクのカメラを貸しても良かったんだけど、こっちの方が晴ちゃんには使いやすいかなと思って。使ったことある?」
「はい、一応。小学生の時ですけど」
「十分だよ。使ったことがなくても大丈夫なのが、これの良いところだから」

 おそるおそるフィルムを巻き上げる私を、先輩は微笑ましそうに眺めている。恥ずかしい。……というかこのカメラっていくらくらいするんだっけ。先輩は「カメラはボクが準備するけど、気をつかわないでね。好きでやってることだから」と言っていたけれど、何もお礼をしないのは気が咎める。うーん、今度お母さんに聞いて、良い感じのお菓子をお礼に渡そうかな。

 そのようなことをぼんやりと心の中で考えているうちに、小さなカメラは撮影の準備ができたみたいだった。「多分できました」と不二先輩を見上げようとした瞬間に、ぱしゃりとシャッター音が鳴る。……やられた。

「あの、できたら心の準備をさせてください……」
「うん?ごめんね、つい。晴ちゃんが真剣な顔すぎてかわいかったから」

 例の事件のせいで強く出れない私のことを分かっているのかいないのか、不二先輩はにっこりと微笑んだ。何度見ても完璧な笑顔だ。
 ……いや、そうじゃなくて! 思わず動きを止めて見惚れそうになるのを、拳を握って振り切った。

「…………もう行きましょう!」
「あはは!」

 先輩は歩き始めるどころかくっと顎を上げて爆笑し始めた。あまりに気持ち良さげに笑うので、私はさすがに文句を言いそうになって、手に握ったカメラを思い出した。
 1メートル。脳裏によぎったその単位に、ちらりと足元を見る。先輩の隣まではあと5歩くらいの距離があった。多分、大丈夫だ。
 私はできるだけすばやくカメラを構えて、シャッターボタンを押した。ぱち、と、思っていたよりも小さくて軽い音がする。……うまく撮れているか確認できないのが少しだけもどかしいけど、ちょっとした意趣返しにはなったと思う。満足してにんまりと口角を上げると、今度はお腹を抱えて笑われた。

「ふふっ……、撮ったの?……ふふふっ……!」

 なんでまだウケてるんだろう。急に撮られて恥ずかしがるとか……ないんだろうか。ないのかもしれない。
 不本意すぎたので、信じられないこの人、というような顔をしてみた。

「ごっ……、ごめんね、でもかわいいことする晴ちゃんの方にも非があるから……」
「これに関しては本当にないです!」
「ちょっ……本当に勘弁して、ごめんって、くっ……、ふふ……!あははっ……!」

 この人、もう何を言っても面白いのかもしれない。箸が転んでもおかしい年頃的な。
 つくづくよく分からない人だと思いながら、私はもうさっさと先に行ってしまうことにした。さっきの写真がうまく撮れていることを心の片隅で願いながら。



 冬の空気は澄んでいるから好きだけれど、あの時ばかりは、花壇に何か花が咲いていればよかったな。と、現像された写真を見ながら思った。あの花壇にどこかの委員会だか部活だかの世話する花が咲くたびに、私と不二先輩はそれを話題にしていたからだ。私たちが持つ思い出の場所はそこまで多くないけれど、花壇は確実にそのうちの一つだった。
 とは言っても、思い出の場所という意識をしてこの写真を撮ったわけではない。卒業のこととか、思い出のこととか、あの時は全く頭になかった。むしろ、先輩はもう本当に意味のわからない理由で大爆笑していて、その仕返しのためにシャッターを切ったはずだった。なのになぜか——

 ……私はちらりと顔を上げて、不二先輩を見る。先輩は先輩で、自分の撮った写真、つまり、私の写っている写真をひとつひとつ確認していっている最中のようだ。

 放課後の三年六組、不二先輩は私の座る席のひとつ前の椅子を、こちら向きに動かして座っている。私はつま先を椅子の下に入れるようにして座っているから気にしないでいいのに、机の下を使いすぎないように位置どられた脚はすこし窮屈そうだ。
 窓際から二列目、後ろから二番目の席。先輩はわざわざ明言しなかったけれど、私の座っているこの席は確か不二先輩自身の席のはずだった。私は視線を斜め下にやって、机の脇にかかっているお菓子の入った紙袋を見る。先日のお礼にとこのお菓子を手渡した時、「本当に気にしなくてよかったのに」と笑いながらこの場所に自然に掛けたのも、それが理由だと思う。

 でも、今更代わりますよって言い出すのもな。
 そう考えて、わずかに微笑みながら手元に視線を落としている不二先輩を一瞬だけ見つめた。その横顔に何か見てはいけないものを見たような気がして、私もすぐに自分の持つ写真に意識を戻した。
 不意打ちで撮ったあの写真は、ブレることも白飛びすることもなく、きれいに先輩の姿を写していた。近くから撮ったから、身体は入り切っていない代わりに笑顔がはっきり見える。確かに花壇は寂しく、後ろを飾る色はないけれど、校舎脇にわずかに残っていた紅葉の落とすひだまりが花の代わりに髪や頬や制服を温かく照らしていた。
 先輩の写真はもちろんこれ以外にも撮ったけれど、これが一番出来が良いように見える。私は眉を寄せた。撮った時の状況に反して笑顔が綺麗すぎるのがなんだか納得いかなかったのだ。

「あ。それ、あの時の?」

 びくりと背筋が動いた。いつの間にか不二先輩が私の持つ写真を覗き込んでいる。思わず手で覆い隠そうとした直前、「ボクも見ていいかな」と微笑まれ、無性に断りたくなりながらもおとなしくそれを手渡した。

「……はい」
「ありがとう」

 と、写真を見た先輩は、一瞬ののちはっと目を見張った。それから目を伏せて、口を手で覆う。

「先輩?」

 予想していなかった反応に不安になって、つい問いかけてしまった。不二先輩は手を少しだけ離して「ああ、ごめん」と早口で釈明する。「あんまり素敵に撮れてるから、びっくりしちゃった」

「えっと、ありがとうございます。でも、先輩はいつもこんな感じですよ」

 少なくともそこまで悪い印象ではなかったらしいことに安堵しつつ、そう返す。だから私の写真の腕前がどうとかではないんです、ということを伝えたかったのに、先輩は今度こそしっかりと俯いてしまった。

「え?」

 うっかり口から滑り出てしまった音に、先輩は「いや……」と言い出してから、口元を隠す手はそのまま、そらしていた目を私と合わせる。

「ずいぶん熱烈だなと思って」

 熱烈。声に出さずに口の中で転がしてみる。熱烈?
 首を傾げて続きが出てこなくなってしまった私を見て、先輩はいくらか調子を取り戻したのかもしれない。「……ボクのも見る?」と、机の向こう側にあった写真たちをこちらに差し出してきた。

 両手でまとめて持った写真を一枚一枚見ていく。写真は七割程度が私の写ったもので、残りが風景のみのものだ。……今回の私ですら両者の比率は半々程度だったんだけれど。やはり撮る比率が逆なのではないかとは思うが、何度言ってもこうなので、写真の素人の私はもう何も言わないことにしている。
 当然と言えば当然だが、不二先輩の撮った私の写真を見るのは初めてではなかった。先輩は写真が上手いから、いつも私が私でないみたいにきれいに写っていて、毎回わけもなくいたたまれない気持ちになる。今回も、ぱっと目に飛び込んでくる写真の中の私があまりにきれいに——もっと言えば、あまりに輝いて見えるので、それがすこし気恥ずかしくて、私はからかいをわずかに混ぜた声音で感想を言った。

「……先輩、本当に写真撮るの上手ですね」
「そう?」
「だって、実物よりずっと可愛く見えますよ。全部奇跡の一枚って感じです」

 そう言って、ちょうど手の中にあった写真に視線を落とした。写真の中の私は不意をつかれたようにこちらを見つめている。この時は確か、学校近くの公園までの道、半分くらい紅葉を残した桜並木を歩いていたら色々と考え出してしまって、そのまま黙々と先輩の前を行っていたところを名前を呼ばれて撮られたのだ。

 私も、写真の中の私を見つめる。……ああ、本気で照れてきてしまった。先輩はこれを狙っていたのかもしれない。
 私がくちびるを尖らせるか尖らせないかくらいのところでむにむにと動かしているのを見て、不二先輩は手に持っていた私の撮った写真を机に置いて、眉を少しだけ下げた。

「……写真にはその人の想いが現れるからね」

 意味、わかる?

 やさしい声が、静かな教室にそっと溶けていく。先輩を凝視したまま、私は固まった。私たち以外誰もいないせいだろうか、先輩の声がやけに響いた気がして、なんだか不用意に返事をしてはいけないような気持ちにさせられたのだ。

「えっと……」

 不二先輩は、いつもはこっちが恥ずかしくなるようなセリフを平気で言うくせに、時々こうやって謎かけみたいなつかみどころのないことを言って私を困惑させる。それに加えて、私が真意を理解するのを期待していないかのように、途中で話を切り上げてしまうのだ。
 けれど、今回は違う。先輩はきれいな顔に切なげな笑みをたたえたまま、こちらをじっと見つめている。
 何か、いつもと違う。絶対に。
 明らかに早くなった心音に焦らされながら、先輩のセリフを心の中で繰り返した。
 写真にはその人の想いが表れるから。
 ……この写真には、先輩の想いが表れている。
 手に持ったままの写真をもう一度見た。「せ、先輩が」と、恐る恐る口を開く。

「うん」
「先輩が、私のこと、こう思ってるってことですか?」

 不二先輩は微笑んだまま、でも若干硬い面持ちで沈黙した。それから、「……つまり?」と、少しだけ低い声で言う。

「つまり、……つまり、その、先輩が、私のこと、えっと……かわいいって、思ってる?」

 写真の中の私を見てぱっと感じたことを、うまく言葉にできなかった。それでも、ああ、こんなこと言ってしまってよかったのだろうかと、どっと後悔の念が押し寄せる。しかし不二先輩は「70点かな」と頷いた。

「ええっ」

 ……間違ってはいないんだ。

 ただでさえ暴れていた心臓がさらに勢いをまして、思わず胸を抑えたくなる。「がんばれ」と励ます声が聞こえて、ううっとうめきながら必死に頭をフル回転させた。お、教えてくれればいいのに……。

 ——あんまり素敵に撮れてるから、びっくりしちゃった。
 ——キミに撮ってもらったら、ボクはどんなふうに写るのかなって、実は前から気になってたんだよ。

「それで……私が先輩のことをどう思ってるか気になって、それで私に写真を撮らせた、とか……?」
「ふふっ……」

 な、なんで笑われたんだろう、今。
 けれど、不二先輩は馬鹿にするでもなく優しく吐息を漏らしただけのようだった。沈黙に続きを促されたような気がして、私は記憶の糸をたぐる。回想は得意だった。こと不二先輩の登場するシーンに関しては。

 ——えっと、ありがとうございます。でも、先輩はいつもこんな感じですよ。
 ——ずいぶん熱烈だなと思って。

 これは……先輩はいつも素敵ですよと言ったも同然なのではないだろうか。

「も、もしかして私、さっき、すごく恥ずかしいこと言いましたか?」
「うん……そうかもね」

 微笑みのまま肯定される。それにショックを受ける間もなく、先輩が何かを堪えるようにして、「晴ちゃんって、ボクのことあんなふうに思ってくれてるんだなって……思ったかな。照れちゃった」と呟いたので、私はいよいよパニックになりそうだった。

 すでに脳裏に焼き付いたあの花壇前の写真を思い返す。もはや幻想じみた、輝きに満ちた光景だった。あの修学旅行の写真の不二先輩がいつもと違って見えたのは、私の目を通していないからだったのだとやっと分かった。

「先輩は、嫌じゃないんですか」 
「晴ちゃん」

 わずかに咎めるようなニュアンスの混じった声音に制されて、私は口をつぐむ。

「嫌じゃないよ。嬉しいよ。……晴ちゃんこそ、どうなの?」

 「私、」と、切り出した声が震えそうになった。「私は……」
 嫌ではなかった。嬉しかった。でも、ただそれだけを伝えていてはいけないような気もした。もっとふさわしい言葉があるように思えてならないのに、どうしてもそれが出てこない。

 ——憧れではないはずだ。半ば祈るようにそう考える。似てはいるけれど、何かが違う。憧れ切ってしまえるほど、浅い付き合いではない。
 私が何も分からないまま話し始めたのが分かったのか、先輩が仕方ないなとでも言うようにまた優しく息を漏らした。さらさらと長めの髪を揺らして、小首をかしげる。自然に口角を上げて、そのくちびるを開くのを、私は呆然と見ていた。

「……好き?」
「————」
「晴ちゃん。……ボクのこと、好き?」

 時間が止まったみたいだった。
 優しいけれど怖いくらいまっすぐな不二先輩のまなざしが、それに拍車をかけた。フラッシュのように色々な考えが頭の中を回る。不二先輩はもとより私の答えを求めていないようで、言葉を続けた。

「ボクは好きだよ、晴ちゃんのこと。だから、キミのことがかわいくて仕方がないんだ。……晴ちゃんは、ボクがそう言うと、なんだかちょっとズレた受け取りかたをしてたみたいだけど。……あのね、いくらボクでも、なんとも思ってない人にかわいいなんて言わないし、写真も撮りたいって思わないよ。
 キミは多分気づかなかったと思うけど、キミのことを初めて名前で呼べた時、本当は飛び上がるほど嬉しかった。キミがボクの写真を持っていたのがわかった時、もしかしたら、って期待したし、心臓がうるさくて、キミに聞こえちゃうんじゃないかって不安だった。写真の練習台が欲しかったのは本当だよ。でも、いつの間にか、告白のつもりでキミの写真を撮るようになってた。だから、待ちきれなくて、どうしても返事が欲しくなって、ボクのことを撮ってもらったんだ。さっき、やっと確信が持てたよ。……晴ちゃん、晴ちゃんはボクのこと好きでしょう。それでね、ボクは……、……ボクは、晴ちゃんの好きも、ボクと同じ好きなんじゃないかなって……そうだったらいいなって、思うんだけど」

 聞いているうちに、いつのまにか泣きそうになっていた。もじもじと動かした足先が不二先輩のつま先と当たって、どうしようもなくなって眉を下げる。今起こっていること、目の前の先輩の見たことのない表情、全てが全く処理しきれないのに、なぜか涙が出そうになっていた。私ははくはくと唇を動かして、一度下を向く。スカートの布地が目に入った。せんぱい、の、「せ」の形を作って、無理やり喉を震わせて、それをはずみに顔を上げる。「せんぱい」

「私は……、私の知らない先輩がいるのが嫌で、だからあの写真を買ったんです。確かに先輩の写真は持ち歩いてましたけど、多分みんなみたいな理由じゃなくて、すごく良い写真なのに、見るたびに悔しくてたまらなくて……、なんていうか、その、私は先輩のことが好きです、けど、でも、先輩のきらきらに見合うだけの綺麗な好きじゃなくて、それが嫌で、だから」

 そこまで言ったところで、先輩は目を伏せて笑った。困り笑いだった。「良かった」と、囁くようにこぼす。それから顔を上げて、すっと私のことを見据えた。

「まだ不安みたいだから、もう一回言ってあげる。好きだよ、晴ちゃん。素直で真面目で思いやりがあるところも、そのくせものすごく鈍いところも、ボクのことが大好きなところも、全部がかわいくてたまらないよ。……ねえ晴ちゃん、ボクがキミに向けて欲しくてたまらなかったのは、その、綺麗じゃない好き、なんだよ。…………ああ、嬉しいな。すごく。あのさ、ボクたち、両思いなんじゃないかな」
「りょ、りょうおもい」
「ふふ、うん、両思い。つまり、お互いがお互いに恋してるってこと」

 向けられ続ける先輩の視線とストレートな表現にたじろいでしまうかと思っていたのに、なぜか今は何も気負うことなく、向かいに座る先輩のことを見つめ返すことができていた。「こい……、恋なら、綺麗な好きじゃなくていい?」確かめるように、そう呟く。

「うん」
「先輩のこと全部知りたいのに、先輩の全部は私以外の人に見せてほしくないのも……私が先輩に恋してるから、ですか?」
「ボクはそうだと思うな」

 先輩は優しく微笑んで私を見守るだけだった。私ばかり焦っているみたいで、余計に落ち着かなくなって指を弄ぶ。窓の外に視線を逸らしたくてたまらないけれど、そうしたくないのも私だった。
 求めている答えは、きっと最初から分かっていた。分かっているのになぜか不安で、パズルみたいにピースをひとつひとつはめていって、全てがしっくりとしまえてやっとそれが口に出せるような気がしていたのだ。先輩にも自分自身のためにも、間違えたくなかったから。
 でも、もう大丈夫だ。窓の外の代わりに、机の上の写真たちを少しの間だけそっと見おろしてそう思う。再び目の前の先輩と目を合わせて、「不二先輩」と名前を呼んだ。

「私、先輩のこと、好きです。恋……してると思います」

 一度言葉を区切って、一生懸命息を吸った。深呼吸しないと脳に酸素が回らなかった。顔も頭もじんじんと痺れて、きっと真っ赤になっているだろうと思う。ぼやけそうになる視界を、まばたきで振り払った。

「先輩が、私のこの「好き」でいいなら……、私は、これからも先輩と一緒にいたいです」

 不二先輩はほんの少しの間目を閉じた。「ありがとう」と、柔らかく響く声で囁いて、それからきらきらした瞳を再びのぞかせた。

「……ねえ、晴ちゃん。いい方法があるよ。晴ちゃんの悩みを全部解決できる、とっておきのやつ。……気になる?」
「えっと、はい」

 不二先輩はいたずらっぽく口角を上げた。私が、先輩の次のセリフを薄々予期しているのを分かっているようだった。

「いい子だね。じゃあ、教えてあげる。……ボクたちが、恋人になればいいんだよ」
「……」
「そうすれば、晴ちゃんもボクも、お互いに『綺麗じゃない好き』向け放題だし、特別扱いもし放題。晴ちゃんはボクのこと自分のものって思っていいし、もし晴ちゃんがよければ、ボクも晴ちゃんのこと、ボクのものって思いたいな。どう?」
「……そんな」
「うん?」
「そんな私に都合のいいこと、あっていいんですか……?」

 先輩は一瞬まじまじと私のことを見つめた後、何かを堪えるように勢いよく俯いた。えっ、と思っていると……先輩の肩がふるふると震えている。明らかに笑いを堪えている動きだった。

「……先輩?」
「くっ……、ふっ、うん、ごめん、やっぱり晴ちゃんってかわいいね……」
「えっと、……私、これからずっとこんな感じなんですか?」

 本当は笑いを隠す気がないんじゃないかと思うくらいあっさりと不二先輩は顔を上げた。「え?」と、笑い混じりに聞き返されて、心臓が跳ねる。

「晴ちゃん、これからずっとボクと一緒にいてくれるの?」
「それは、あの、先輩が嫌じゃなかったら」
「晴ちゃん」

 先輩はちらりと机の上の写真を見やった。

「は、はい」
「ボクと付き合ってくれるよね?」

 それは、問いかけの体裁をとった確認だった。不二先輩の眉と口角は自信ありげにきゅっと上がって、机に肘をついた手は顔の近くで頬杖をつくように組まれている。私はそれだけで胸がいっぱいになってしまって、膝の上で力の入らない拳を握って、先輩を見上げた。そして、一度こくりと頷いて、「……はい」と返事をする。

 不二先輩はくしゃりと笑った。満足そうにわずかに顔を上げ、なにごとか呟く。

「ああ、長かったな……」
「え?」
「ううん、なんでもない。……ねえ晴ちゃん、そっち行ってもいいかな」

 私はまた頷いた。今度は返事ができなかった。というか、顔が熱すぎてもう目が合わせられなかった。
 先輩はがたりと席を立ち、写真がたくさん置かれた机を回り込んで、私の側にやってくる。程なくして視界の端に学ランの黒が映ったけれど、俯いたままそちらを見れない。
 すると先輩は私の顔を覗き込むように姿勢をかがめて、「晴ちゃん」と名前を呼んだ。その響きがとんでもなく甘くて、私はぎょっとしてうっかり横に振り向いてしまった。
 不二先輩は目を見開いた私を見て、ふふ、と声を漏らす。私はそのまま数瞬先輩を見つめて、あ、と気づいた。

 ……先輩の耳、赤い。

 私に見つめられているのに気づいた先輩は、耳が赤くなっている自覚があったのか、片手を耳にやって隠すように抑えた。「……恥ずかしいな」と、私から目を逸らして苦笑する先輩に、「いや、目元も赤いです」と思わず指摘すると、「もう……」と拗ねたようにその手を口元に移す。さっきまであんなに恥ずかしいセリフを連発していたのに、「キミの方が真っ赤だよ」のセリフすら言えないみたいだ。

「先輩、かわいい」
「……いじわるだね」

 調子づいた私は、ふとした思いつきで「不二先輩」と目の前の先輩を呼んだ。今度は何?とばかりに視線だけよこした不二先輩に、私は座っている椅子に手をついて体を横に向ける。そして両手を差し出した。

「手、繋いでいいですか?」

 はあ、と諦めたようにため息をひとつこぼして、先輩は私の手を一度に取ると、両手で包み込むように握った。しなやかで綺麗な指だけど、私の指よりもどこかごつごつとしている。その感触がなんだか照れ臭くなって、私は目を細めた。

「わ、冷たい」
「……緊張してたから」

 私は繋がれた手に視線を落とした。やっと実感が湧いてきて、嬉しいな、と純粋に思えた。だからだろうか、「せんぱい」と呼ぶとびっくりするくらい甘えた声が出て、身をすくめそうになる。「なあに?」と返ってきた声が私に負けず劣らずのものだったから、なおさらだった。

「……こんどの文化祭、一緒に回ってください」

 先輩は顔を綻ばせた。きゅっと手にこめていた力を緩めて、遊ぶように私の手指をゆっくりとなぞっている。ものすごく恥ずかしい。けれど、やめてほしくはなかった。

「もちろん」
「学校以外でも会いたいです」
「ボクもだよ。デートしようね、いっぱい」

 先輩の指先は、私の体温が移ったのか緊張が解けたのか、ぬるく温まり初めている。どうやら調子が戻ってきたようだ。

「テニスしてるところも見てみたいです」
「そうか、見せたことなかったっけ……、うん、ボクも見てほしいな。ご期待に添えると思うよ」
「先輩とのツーショット、欲しいです」
「分かった。撮ろうね」

 言っちゃダメだと思っていた言葉が、今にもこぼれそうだ。顔が歪む。

「……もし欲しいって言われても……第二ボタンとか、他の人にあげちゃ嫌です」
「周りの子が何か言ってた?今すぐキミにあげたいぐらいなんだけどな」

 ぐっと口に力を入れて必死に抑えていたのに、不二先輩の指先があまりに優しいから、……拳を作って誤魔化すこともできずに、結局、ぽつりと言ってしまった。

「卒業、しないでください……」
「……」

 無理に決まっている。気が早すぎる。それに、重い。でも、不二先輩は茶化さなかった。何も言わずに手の力を強めて、ややあってから、「……写真」と切り出される。

「……」
「晴ちゃんの写真、ボクも持ち歩きたいな。高等部に行ったら寂しくなっちゃうから。今だっていつも会いたくて仕方ないのに」

 私はわずかに口元を開いたまま、不二先輩の顔を呆気に取られたように見つめていた。先輩は綺麗な顔立ちに静かな優しさを漂わせたまま、続ける。

「誰の写真?って聞かれたら、ボクの大切な人だよって言うよ」
「み……、見つかるつもりなんですか」
「わりと」

 先輩は首をかしげてにっと笑った。白い歯がちらりと見える。

「晴ちゃんも見せつけていいからね、ボクの写真」

 そうからかわれて、私は手を握られたまま、「先輩のばか」とうめくようにつぶやいた。





MainTop