美術部が休みの日の美術室は本当に静かだ。閉めたドアの向こうから吹奏楽部の練習の音がぼんやりと聞こえてくるほかは、幸村が筆を画用紙に滑らせるかすかな音と、時折筆洗で筆を洗う時の水音くらいしかしない。
 私たち以外誰もいない部屋で、私は幸村が課題の絵を描いているところをただ見ていた。以前テニス部の練習試合だかなんだかで美術の授業を一回欠席した幸村は、その分の遅れを居残りで取り返すことになったのだ。

 今私たちの学年がやっているのは、確か、風景を元に自分の感覚を取り入れた絵を描けとかなんとか……。そういうよく分からない課題だった。幸村とは違って絵がからきしの私はやっつけで風景画を描き、適当に空をピンクにするなどしてやりすごしたはずだ。……普通の風景画じゃダメだったのかな。幸村はどう思っているか分からないけど、私はもう思い出してもうんざりだった。

 前回までで大体の風景部分は描き終わっていた幸村は、微妙に風が強い今日の天気が野外で描くのに向かなかったこともあり、どうせなら美術室で腰を落ち着けてじっくり描きたいと言って、こうして美術室の机の横の窓際にイーゼルを立てている。
 幸村が、飽きないの?とも、気が散るからやめてくれとも言わなかったので、私はずっと幸村と幸村の描く絵を見ていた。
 風景のモチーフは校内から選ぶことになっていたから、私にも当然見覚えがある場所が描かれている。なのに幸村が色を重ねていくたびに、なんだかまるで違った世界のように見えてくるから不思議だ。幸村の指先一つで、画用紙の中の世界は生まれ変わっていく。この絵の中の風景は、幸村のためにある。
 それを眺めているうちに、急に所在ない気分になってしまった。私は美術室の背もたれのない椅子の止まり木の部分に上履きを引っ掛けて遊んだ。机に肘をついて、幸村の後ろ姿を見る。窓から差し込む光と広い背中に広がる白いシャツの布地が、柔らかい形の光と影を作っている。それは幸村の動きに合わせて形を変えた。

 ——なんだかうらやましい。画用紙も、シャツも。

 私は頬杖をついた。長いこと何も言わずに幸村のことを見ていたから、声を出すことがひどく不自然なことのように思えた。だから、ものすごく小さな声で、「……幸村」と名前を呼んでみる。

「どうしたの?」

 気づかれないかと思ったのに、当然のように幸村はこちらを振り向いた。呼んだ側であるはずの私がなぜか不意をつかれたような表情をしているので、幸村の方も「え?」と重ねて聞き返したげな視線を寄越してくる。

「ごめん、呼んだだけ」と私が言うと、「なんだい、それ」と笑われた。

「……なんかうらやましいなと思って」

 私の言葉に、幸村は今度こそ露骨にまばたきを二、三回した。それから数瞬の思案の後、「絵が?」と問われる。私が頬杖をついたまま、顔を沈み込ませるようにして頷くと、大体の言いたいことが伝わったらしく、幸村は絵筆をパレットに置いた。それから私の方に体を向ける。

「こんなに俺好みの君にしてあげたのに、まだ足りないんだ?」

 そう言って、頬に手を添えられた。
 あ、キスされる。と思って目を瞑ると、思った通り軽い音を立てて唇が触れ合う。

「ほら」

 そういえばそうだ。幸村の指先一つで塗り替えられていく。私の心も世界も。もうずっと前からそうだったのだ。

「……そうかも」
「フフ」

 欲張りな私の返事に、それでも幸村は満足そうに笑った。





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