2/29に出す予定の本に入れる話です。推敲前です。


 ふ、と目が覚めた。
 真夜中の静まり返った暗闇、独特のぬるさのある気配に、少しの間ぼんやりと身を任せてみる。
 ——晴ちゃん?
 隣からそう声がした気がして、私はタオルケットをゆるく引っ張った。絡まらないように寝返りを打つ。露出した肌に、タオルケットの感触が心地いい。そうしてゆるゆると窓側を向くと、不二も目を覚まして私を見つめていた。
 電気の消えた部屋の中、どうしてか不二の瞳がどんな色をしているのかが分かる。
 真夜中と同じくらい静かな目だ。
 泣きそうな目……。
 そう感じてから、はっとした。
 ……——ふじ?
 息だけでそう聞くと、不二は瞳を閉じた。ぎゅっと目を瞑って、そのまま、今度こそ確実に私の名前を呼ぶ。ん、と返して、スプリングを軋ませながら不二にくっついてみる。
 不二はおもむろに指先を私の頬に伸ばして、ゆっくりと輪郭をなぞった。いつもこうするときは嬉しそうに微笑んでいるくせに、今日に限って口元に笑みはない。
 敏感に空気を感じ取っていた頬をなぞられて、くすぐったくなって少しだけ顔を斜めに上げる。不二の指が逃げて行こうとするのを掴み取った。
 正直に言えば、迷っていた。不二の心がなにかによって揺れていることは明らかだ。けれど、どうしたの?と聞いてしまってもよいものか迷ってしまうような気配を、今の不二はまとっている。
「……寝れない?」
 できるだけ迷っていることを悟られないように、さっさと言ってしまうことにした。寝起きで出した声はやけに掠れているような気がする。
「夢を……見て」
 不二はそう話し始めた。十中八九ろくな夢ではないだろう。そう思っていたのに、「それがあんまりいい夢だったから……」と続いた。不二は私の重みで寄ったシーツの皺を見ている。
 怖くなったのか。
「……だから、君が恋しくなっちゃった。起こしちゃったね」
「起こされたけど、別にいいよ」
「うん……。晴ちゃんの顔を見たら安心した。もう寝るから、大丈夫」
 不二はいつもの笑顔を作ってそう言った。止めなくては、と思って、とっさに「お腹すいた」と返す。
「明日……休みでしょ。起こした責任取って」
 私がそう言うと、不二はしょうがないなとばかりに目を伏せて笑うのだった。

   ◇ ◇ ◇

 不二に手を引かれてベッドから抜け出し、ぺたぺたとぬるいフローリングの上を歩く。リビングにはまだエアコンの涼しさが残っていて、私たちを人工的な心地よさでつつんだ。
 コンロの上の蛍光灯だけは常についているから、私たちは電気のスイッチを押さなかった。その代わりに、今日の夜洗って伏せたばかりのマグカップに手を伸ばす。不二のがベージュで私のが紺。その間に、不二は冷蔵庫を開けていた。青白い光が整った横顔を照らしている。マグカップを置いて不二に近寄った。顔を寄せると、冷蔵庫からの冷気に紛れて、不二の肌から立ちのぼる暖かさが伝わってくる。「牛乳がいい。あっためて」と言うと、不二は「うん」と素直に牛乳パックをドアポケットから取り出した。
 揃いのマグカップに牛乳を注ぐ。不二が途中で手を止めようとしたのを、「もっと」と言ってたっぷり注がせた。今は、飲み物用に設定された電子レンジの稼働音が、薄暗いキッチンに響いている。
 私はなりふり構わず不二のことを観察するか、できるだけ静かに待つか迷って、結局後者を選んでいた。不二の背中にくっついたまま、何もできない。
「晴ちゃん」
 急に名前を呼ばれて、どきりと心臓が跳ねた。身体が動いてしまったことは、至近距離にいる不二には丸わかりだろう。
「チョコレート食べる?」
 不二は振り向かずに、口調だけ優しく言った。「たべる」小さな声でそう返すと、「じゃあ、ちょっと待っててね」と言い残して不二の温もりが私から離れていった。
 所在なくキッチンに佇んで、Tシャツの袖を触ったりなどしている間に、不二はいつの間にかきらきらしたものを両手で掬って戻ってきていた。チョコレートの包み紙だ。いくつか味に種類があるのか、カラフルなそれは、光を反射して薄く光っている。
 不二が私にチョコレートを手渡すより先に、レンジが牛乳を温め終わったことを知らせた。私は若干気まずくなりながらレンジを開ける。ひそひそ話ばかりの今には、どうにも響きすぎた気がしたのだ。取っ手を持ってふたつのマグカップを取り出す。牛乳は結局不二の分までなみなみに注がれていた。
 二人でバルコニーに面する窓の近くに座った。もう床は生ぬるい。包み紙の端を触りながら、私は不二の横顔を見た。不二は感情の読めない顔で窓の外を見上げ、しばらくした後に私を見た。
「何見てたの」
「星が見えないかなって」
 見えた? と聞いて、見えなかったと言われたらどうしよう。頭にそんな焦りが生じて、口を動かせない。普段の不二だったら、別にどうと言うことはないだろう。けれど、今は? 
 私はチョコレートの包み紙の端を左右に引っ張った。するりと包装が解けて、中からころりとボールの形をしたチョコレートが手のひらに転がってくる。口に放り込んで、歯で真っ二つに割ってみると、口の中にクリームのようなソースのようなものが溢れた。
 不二は結局何を怖がっているのか、聞いていないので分からない。窓の外は見る気になれなかった。
 良い夢で、良い夢すぎたから、私が恋しくなった。
 不二の言っていたことを、チョコレートに紛れさせて口の中で転がす。そうすると、胸の奥の方がぼんやりと切なく温まり、それを探ろうとする前に消えていった。
 口にしてみると思いのほか大きかったチョコレートを、とろとろしたソースと混ぜるように咀嚼する。舌の上に色々な香りをまとった甘さが張り付いて、それを飲み込んでいく。
ごくり、と最後の溶けかけたチョコレートを喉に送って、私はホットミルクを一口飲んだ。チョコレートの香りと優しい牛乳の甘さが混じって美味しい。
 ホットミルクの暖かさに気をよくした私は、不二の方に向き直った。少しずつマグカップを傾けながら、夜灯りに浮かび上がる輪郭を見る。
 不二は私が見つめてくるのにふ、と口角を上げて、それから目を伏せた。またあの目だ。私は顔を歪めそうになるのを堪えて、息を吸う。吸って、……何も言えなかった。しかし不二は「……ごめん」と不器用に笑みを作る。
「晴ちゃんがかわいいから、つい」
 つい、で泣きそうになられてたまるか。
 私の視線に何を感じ取ったのか、不二はまた口を開いた。
「……うまく言えないんだけど、晴ちゃんがずっと隣にいてくれるから、それが嬉しくて……嬉しいのに、今はなんだかすごく……」
「——怖い?」
 不二はこちらを見た。私は笑うでも怒るでもなく、ただ不二を見つめる。「もしそうだったら、私はちょっと嬉しいよ、不二」
 戸惑ったように瞳が揺れる。夏の夜のはずなのに、不二は真冬にそうするように、マグカップから温もりを得ようとする。やっと自白を始めたものの、結局はうまく話せないようだった。「晴ちゃんは、」とぽつりと呟いて、少しの沈黙の後になんとか台詞を紡ぐ。
「晴ちゃんは、ボクの心のこんなに奥にいるのに、でもボクじゃないでしょう。……だから時々、怖くなるのかもしれない。キミがボクにとって大切になりすぎていて……、キミを失いたくないけれど、それはボクの意志では決められないんだと思うと、いつか晴ちゃんが、ボクの隣からいなくなっちゃったらどうしようって……」
 私は場違いにも感動していた。不二にもそんな気持ちを抱くことがあるのだと、意外というか、安心すらしていた。嬉しい。けれどやっぱり、不二らしくない。
 不二はいともたやすく私の手を取って、ずっと未来の話をする。記念日にくれるアルバムも、ふたりで育てているサボテンも、出会った頃に比べてずいぶん増えた本も、すべてがそのまま二人のこれからを形作るものだと、そう信じている。二人のこれまでを実感すればするほど、私が怖気付いてこれからを約束できずにいるのに、どうしてか、不二は今日と同じ幸せがずっと続いていくことを、心から信じられるのだ。それが、不二のそういう心の作りが、私は悲しくて、苦しくて、でも泣きそうなくらいに大好きだったから、……だから、今私の目の前で泣きそうになっている不二が、いつかの私と同じ気持ちになれば良いと、そう思う。
「私はさ、不二がいっつも来年とか再来年とか十年後とか、すごい先に私の時間を予約するのが怖くて仕方ないよ」
 不二は顔を上げる。顔の起伏が月明かりに照らされて、やわらかな陰影を作る。
「わかんないじゃん。どうなるか。今この瞬間の一緒にいたいが、そのまま永遠の保証にはどうやったってならないじゃん。だから、なんか、この家がどんどん私たちの家になってって、そうするとどんどんわたしたちが永遠みたいに見えてきて、不二もそういう話をするけど、でも実際はそうじゃない。私たちは本当の意味では一つになれないし、永遠になれないから」
 ひとつの存在じゃないから永遠にはどうしたってなれない。永遠みたいなものを感じるたび、それが時々どうしようもなく悲しい。
「……でも不二、不二はそれを信じるべきだと思う」
 不二は絶対も永遠も信じられるから。私のためにそうであってほしい。私の手を取って強引に永遠に連れて行って欲しい。永遠の場所に届かなくても、そこまでの道行きができる限り長ければよいと願っている。
「私は明日も不二の隣にいるよ」
 まだ弱い。不二を抱きしめてあげるには遠い。私は焦りそうになる舌を必死に留めて、「それで」と続ける。
「それで、明後日も、しあさっても、隣にいたくて……いや、待って、えっと」
 不二みたいに言ってあげたい。胸のひやひやするような鼓動を押さえつけて、なんだか震えそうな声を落ち着かせるために、小さくこぼすように、言った。「ずっと一緒だよ。絶対」不二みたいに、自信を持っては言えなかった。でも、今私がこの瞬間、絶対に言ってあげたい「絶対」だったから。不二に一番信じてほしい永遠だったから、どんなに私らしくなくても、それでいい。
 「絶対?」と、不二は繰り返す。
 「うん。絶対。約束する」
「そっか……」
 不二はようやくふふ、と笑った。「嬉しいな……」と、やわらかく間伸びした語尾がぬるい夜に溶ける。
「こんな話するつもりなかったのに」
 わざとらしく責めてみると、不二はまだいつもの余裕ぶった雰囲気の戻らない声で、「ごめん」と返した。やけに真摯に響いたから、おかしくて私も少し口角を上げる。かわいいな、と思った。
 不二の手をとって、自らの頬に添えさせる。ミルクの温もりをまとった不二の指先が、私の頬を包む。輪郭を確かめるように、髪の毛を撫でて、もう片方の手で私の指をやわやわと曲げたり伸ばしたりする。私はそんな不二を見ていた。

 私と違って、絶対という言葉も絶対として信じられるのが不二の強さなのだから。明日目を覚ました時、隣にいる私を見て、間抜けな寝顔に永遠を感じて、いつものように笑えばいい。
 不二のことを抱きしめる。人の肌の感触がする。薄くやわらかい布越しに、不二の心臓の鼓動が聞こえる。不二の命を感じながら、私は目を閉じる。
 ……きみはこういうの嫌いかと思ってた。
 私を抱きかかえて、頭まで肩に摺り寄せるようにした不二が、かすかな声でそう言うので、私は同じくらい声をひそめて、バカ、と言った。





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